あらすじ
私は、人の唇に、取り憑かれている。
上唇の稜線、下唇の膨らみ、合わせ目の翳り。出会う人の唇を、片端から品評せずにいられない。そんな私に、たった一人だけ、品評できない唇があった。
高校の放送室。二歳下の後輩、白瀬奏多。
「キスの練習、付き合ってくれませんか。――女同士だし、ノーカンでしょ?」
触れて、重ねて、誰よりも深く知って。
それでも「好き」の一言だけが、どうしても言えないまま――卒業式の日、私は自分の手で、それを終わらせた。
九年後。
リップ専門のメイクアップアーティストになった私のもとへ、一件の指名が届く。
依頼主は、白瀬奏多。
売れっ子声優になったあの子の、結婚式の前撮りの、試し化粧。
左手の薬指には、細い指輪が光っていた。
――いちばん触れたかった唇に、私は、私以外の誰かのための紅を引く。
これで終わりにする。九年前に終わらせそこねた、全部を。
……そのはずだった。
触れられるのに、言葉にできない。
キスはできるのに、心だけが手に入らない。
世界一唇を読めるはずの私が、自分の恋だけ、九年も読めなかった。
回り道の果てに、ちゃんと帰りつく恋の物語。