あらすじ
東京白石室内楽団の新人採用の日、新しく入団した青年、瀬戸奏多が、ふいに清水凛音のそばに置かれた黒いスタインウェイのグランドピアノを指さして、笑いながら尋ねた。
「このピアノって、清水先生の未来の夫だけが弾けるって聞いたんですけど、僕も弾いていいですか?」
清水凛音は深く考えることもなく、ただ一言だけ返した。
「いいわよ。」
その瞬間、会議室にいた同僚たちの視線がいっせいに僕へ向いた。僕が清水凛音を七年待ち続け、それでも結婚までたどり着けなかった“未来の清水さん”だということを、誰もが知っていた。無名だった彼女を、今や東京のクラシック界で注目される存在に押し上げたのも僕だった。それなのに僕でさえ、彼女の母親が遺したあのピアノには、一度も触れさせてもらえなかった。
同情、詮索、そして嘲りを含んだ視線が身体に突き刺さる。その時、僕はようやくはっきりと悟った。清水凛音とのこの関係は、もう終わらせるべきなのだと。
その日の採用面接が終わった後、楽団の事務局長から電話が入った。声は少し言いづらそうだった。
「佐伯さん、清水首席と予定していたピアノ連弾ですが、準備しなくて大丈夫です。首席が、ウィーン公演の相手を新人の瀬戸奏多に替えると言っています。」
予想していた結果ではあった。それでも、胸の奥が鈍く痛むのを止められなかった。僕は問いただすことも、抗議することもなく、ただ静かに返事をして電話を切った。それからしばらく、誰もいない事務室に座り続け、最後に長く連絡していなかった番号へ電話をかけた。
「一条月乃。前に、ウィーンの金色ホールで僕と結婚式を挙げたいって言ってくれたよね。今でも、そう思ってる?」
電話の向こうはしばらく静まり返っていた。まるで眠っていたところを起こされたようだった。やがて、鼻にかかったような月乃の声が、おそるおそる返ってきた。
「私、夢を見てるの?」