あらすじ
無理数を発見して、海に沈められた男がいた。
紀元前五世紀、ピタゴラスの教団は「万物は数である」と信じていた。世界は自然数とその比で、余すところなく語り尽くせる——それが彼らの信仰だった。ところが弟子のヒッパソスが、正方形の一辺と対角線が決して自然数の比で表せないことを証明してしまう。
語りえぬもの。あってはならぬもの――伝承によれば彼は、その秘密もろとも、海へ沈められた。
それから二千年後、その魂が、もう一度生まれてきたとしたら?
本作は、ヒッパソスの生まれ変わりを、実在した十五世紀の枢機卿ニコラウス・クザーヌスとして描く。川のほとりに生まれ、有限な人間は無限なる神に決して届かない、その「届かなさ」を知ることこそ最高の知だと説いた人。彼が思想の中心に据えたのは、かつてヒッパソスを葬ったのと同じ――図形だった。
一人は、語りえぬものに触れて滅び、一人は、語りえぬもののうちに神を見た。同じ真理が、呪いから、祝福へ。一つの魂が、二千年をかけてそれと和解していく物語。