あらすじ

金沢の冬は、雪が降ると音の輪郭がふにゃふにゃになる。消えるわけじゃない。届く前に、溶けるのだ。 十一月の終わり。私は兼六園の外周を、わざわざ身体を芯まで冷やしながら歩く。古いビルの四階にある、ピアノ講師・桐生誠司(きりゅうせいじ)のレッスン室に、外の冷気をそのまま連れていくために。それが「音楽のため」だと、自分に言い聞かせながら。 桐生はかつて、ウィーンの国際コンクールで三位を獲りながらも、「自分の音が自分に届かなくなった」として、八年もの間、舞台から姿を消した男だった。 二人が向き合うのは、武満徹の『雨の樹素描』。 音と音の間の、何も鳴っていない「空白」に、ただ水を貯めるように時間を積み重ねていく。 冷気を通して繋がる二人の、言葉にならない打鍵の音。 やがて桐生は、静かに告げる。 「秋に、コンサートをやろうと思ってる。八年ぶりに」 感情の感傷(センチメンタリズム)を徹底して削ぎ落とし、雪と、白鍵と、肉体の温度だけを見つめる、凍てついた前奏曲(プレリュード)。

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カクヨム
カクヨム2026/05/27
  • 現在の作品白鍵と雪