あらすじ

大川端工房の煮風 夜が明けるか、明けぬか。  隅田川の川面を白く染め始める曙光(しょこう)のなかで、私は静かにキーボードに指を置く。 ノートPCのファンが、微かな、だが確かな回転の震えを上げ始める。  そのデジタルな振動が、私の胸の奥に眠る、五十年前の「ある音」を不意に揺さぶる。 ──低く唸る、ターレットトラックのアイドリング音。 鼻腔がにわかに氷の匂いを思い出し、掌が手鉤(てかぎ)の冷たさに強張る。  豊洲の汗、新宿の夜、山口・吉見の海原を駆けた泥まみれのラガーマンたちの背中。  普通なら交わるはずのなかった濃い人生たちが、かつて東京の片隅でスクラムを組んでいた。 世間はそれを、ただの古い思い出話と呼ぶかもしれない。  だが、私にとっては、人生の重みがすべて詰まった絶対の宝物だ。 身体の自由は少しずつ利かなくなり、現状維持すら難しい現実がここにある。  けれど、夢や熱量といった類いの貴重なものは、まだ私の胸の奥で、静かに、しかし確かに息づいている。 これは、物語というよりは、ただの「風のスケッチ」だ。 爽やかに吹き抜けるだけの、格好のいい薫風ではない。  七十直前の男の人生が、何年も、何十年もじっくりと弱火でコトコト煮詰まって、ようやく滲み出てきた濃厚なエキスの風。 人はそれを、誤変換のついでに「煮風(にかぜ)」と呼んだ。 大川端工房の小さな机の上から、あの頃の、そして今の風をそっと放ってみようと思う。 まあ、アバウトに、テキトーに。  けれど、あの頃の仲間たちの背中だけは、恐ろしく緻密に。 さあ、今夜も美味い酒を片手に、始めるとしよう。

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カクヨム
カクヨム2026/05/27
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