あらすじ
人事部労務課長・三上健一、四十二歳。労働基準法を暗記しながら、何一つ守れなかった男。
部下・山田遥が死んだ。過労死だった。会社は保身のために「追悼文集」を作ることにし、その責任者を三上に命じた。
取材が始まる。高円寺、浅草、赤羽、鎌倉。遺族と友人と顧問の話を聞くうちに、三上は遥の輪郭を知っていく。鎌倉の古寺の娘。高校時代から自作のバイノーラルビートに没頭し、「この世界から海の向こうへ行きたい」と繰り返していた女。「この世界はうるさすぎる」と言い続けた女。
三上は遥の音源を聴く。
そこから、何かが始まる。波の音が耳奥に残る。会議室の無音が海底に変わる。娘の名前を、死んだ部下の名前と混同しそうになる。妻が出ていく。会社で孤立する。社労士試験の答案用紙が、海面の白に見える。
鎌倉の寺の奥の部屋で、三上はノートを見つける。最後のページに、こう書かれていた。
「海はうるさくない 海だけが」
追悼文集が完成した。会社は日常に戻った。三上は由比ヶ浜に立った。
波が、足首を濡らした。