あらすじ
右のイヤホンを、あの子はいつも黙って渡してきた。
毎朝の各駅停車、40分。
隣に立ったあの子——京(キョン)が、MDウォークマンの右のイヤホンを差し出す。
言葉もなく、当然のように。
俺はそれを受け取って、片耳ずつ同じ音楽を聴いた。
ただそれだけの時間が、俺にとっては特別だった。
なのに俺は、文化祭の帰り道に、雰囲気も何もないホームで突然降りて「好きだ」と言った。
キョンは困ったような顔で、「ごめん」と言った。
それから20年。
38歳の俺の人生は、静かに詰んでいた。
地方でパワハラに耐え、孤独の中で流れるように結婚し、子供は他の男の子供だと半年前に知った。
誰にも言えないまま、深夜に酔ってフェイスページを開いたとき——キョンのアカウントを見つけた。
プロフィール欄の最後に、一行だけ書いてあった。
「性別:Xジェンダー(ノンバイナリー)」
知らなかった。20年間、何も知らなかった。
あの子が、性別というものを自分の外に置いて生きていることを。
その夜、酔って床に転倒した。
目が覚めたら、文化祭の当日朝にいた。
頭の中は38歳のまま。
あの「ごめん」は、まだ起きていない。
——俺はまだ言ってない。
今度は違う。
雰囲気も何もないホームで急に降りない。
まずキョンを知る。ちゃんと近づく。ちゃんと言葉を選ぶ。
宇宙を夢見るユースケの英語を一緒に勉強して、弁護士を目指すフミの家計を助けて、不器用な起業家バータの背中を押して——仲間全員の未来を変える。
そしてキョンには、準備が整ったとき、ちゃんと言う。
でも、ひとつだけ問題がある。
高校時代のキョンは、自分が何者かを、まだ言葉にできていない。
「なんか変なんだよね、私」——それしか言えない。
その言葉に名前がつくのは、20年後の話だ。
だから俺は、ただ隣にいる。
キョンが自分の言葉を見つけるまで、待ち続ける。
俺はまだ言ってない。
それが今の、俺の覚悟だ。