あらすじ
世界最強と呼ばれた宮廷魔導師は、ある日、誰かを救えなかった責を負って、すべての名を捨てた。
辺境ヴェルガ地方、フィオレ村。雪と松だけが住人の小さな集落で、彼は「ただの旅人」として余生を過ごすつもりだった。誰のことも、もう、救うつもりはなかった。
——そのはずが、村の外れの神域に、ひと月以上、雪に半分埋もれたまま置かれた幼女がいた。敵国エルムガード皇国から奉納された生け贄。母を目の前で殺され、教会に売り渡され、声を失った娘。名を、ライラといった。
「凍えさせない。それだけなら、できる」
捨てたはずの男は、毛布を二枚抱えて、神域に向かった。彼の指先に住み着いた古き失われた魔導《言詞》《げんし》は、もう二度と使わぬはずだった。だが、生け贄の回収にやって来た教会の異端審問官——『白の七剣』第三席ガロウ・スターレン——が、村ごと焼く、と言った夜。
「黙せよ」「散れ」「消えよ」
息のような三語で、五人の白い装束は雪の粒に変わった。絶叫は、起きなかった。月の光の中で、五つの盛り上がりが、ゆっくり、雪に戻っていった。
戦いを終えた男に、ふた月の沈黙を破った息のかたちで、幼女が小さく、こう告げた。「……父さん」。
それから三七日。読み書きを教え、髪を撫で、「先生」と呼ばれ、ようやく「父さん」と完全な声で呼ばれた春の日に、男は、ひとつだけの真実を知る。「『世界最強』の名は、もう要らない。この子の父であることだけが、俺の名だ」
しかし、教会総本山が、第三席の喪失に気づくのは時間の問題だった。聖都リエルアの最奥で、エメリア大司教が、静かに告げる。「精鋼の十を、出します。それでも足りねば、十二を」——次の冬が来る前に、雪を踏んで、彼らは、また現れる。