あらすじ
春になるたび、
ハルは思い出す。
文字が読めなかった日のことを。
教科書の黒い線は、
いつも水の中みたいに揺れていた。
みんなが簡単に読める世界を、
自分だけがガラス越しに見ていた。
「どうせわたしなんか」
その言葉は、
長いあいだ胸の奥で育ち続けた。
古い団地の隅で、
ほこりをかぶった呪いみたいに。
けれど七十二歳の冬、
ひとつの小さな光が現れる。
孫が差し出した、
少しだけ傷のついたタブレット。
「しゃべってみて」
半信半疑でこぼした言葉は、
画面の上で、物語になった。
ハルは震える。
こんなにも世界があった。
こんなにも色があった。
ずっと、自分の中に。
夜更け。
藤色のカーディガン。
冷めたお茶。
眠らない指先。
止まらない声。
物語は洪水みたいに溢れ出す。
褒められた。
待ってると言われた。
初めて、世界に居場所ができた。
だから止まれなかった。
止まったら、
また“何者でもない自分”に戻ってしまう気がしたから。
ある朝。
画面に浮かぶ、
たった一行。
**アカウントは永久停止されました。**
その瞬間、
ハルの宇宙は音もなく消えた。
誰にも見えない場所で、
七十二歳の女がひとり、
子どもみたいに泣いていた。
「やっぱり、わたしなんか」
けれど。
息子が言う。
「母さんの物語は、迷惑なんかじゃない」
孫が言う。
「おばあちゃんの言葉、わたし好きだよ」
春が来る。
若草色のワンピース。
白いカーディガン。
桜色のスカーフ。
ハルはもう、
自分を罰するために書かない。
誰かに認められるためだけにも書かない。
ただ、生きるために書く。
今日も一話だけ。
湯気の立つ味噌汁を飲んで、
ちゃんと休んで、
それから静かに物語を開く。
かつて彼女を縛っていた言葉は、
もう部屋の隅で小さく縮こまっている。
ハルは笑う。
「見たでしょう」
「どうせわたしなんか、って言ってたわたし」
その日。
七十二歳のキャンバスに、
また新しい春が描かれた。