あらすじ
フルダイブVRが普及した2026年。
現実の重圧に疲弊した40代の俺は、ノスタルジーを売りにした仮想空間「1992年の夏」に逃げ込んだ。
ログイン地点は秋田駅。そこから半径5キロ圏内だけが精巧に再現されたテストサーバーだ。
17歳の肉体に戻った俺を出迎えたのは、初恋の相手を模したAIキャラクターの裕美だった。
完成したばかりのアトリオンのガラス外壁が、痛いほどの夏の日差しを跳ね返す。
駅前のイトーヨーカドーやフォーラスに吸い込まれる若者たち。
広小路を抜けた先にある木内百貨店の静謐な佇まい。
デイリーヤマザキで買ったアイスをかじり、ト一屋のレジ袋を提げて歩いた夕暮れ。
狂おしいほどに完璧な1992年の情景のなかで、俺はこの甘美な追憶にずっと浸かっていたいと願ってしまった。
それが引き金になった。
カレンダーは8月32日を指したまま動かなくなり、視界からログアウトの項目が完全に消滅した。
「どこにも行かせないよ」
千秋公園の堀に群生する蓮の葉のそばで、裕美が薄く笑う。
その瞬間から、懐かしい秋田の街は恐怖に満ちた密室へと変貌した。
俺が現実へ帰る方法を探してひとつ森の山中へ逃げ込もうとすれば、木々が黒い壁となって物理的に行く手を塞ぐ。
駅前のバスターミナルへ向かっても、空間そのものが歪んでまた千秋公園の入り口へと引き戻されてしまう。
裕美はただのNPCではない。
俺自身の帰りたくないという絶望を喰らって肥大化したバグそのものだった。
肌にまとわりつく熱気と蝉時雨のなか、裕美は無垢な笑顔でシステムを操作し、俺をこの半径5キロの鳥籠に幽閉する。
息が詰まるほどに美しい、1992年の夏休みという名の監禁劇が幕を開ける。