あらすじ
藤沢よるの一日は正確だった。朝七時に起き、コーヒーを一杯だけ淹れ、八時十二分の電車に乗る。特別な不満はない。足りないものがあるとも思っていない。まだ「足りない」を知らないだけだった。
梅雨明けの七月、どうしても眠れない夜がある。午前二時五十三分、理由もなく外に出る。深夜三時の街は、毎日通る道なのに全部が違って見えた。コンビニの蛍光灯は水槽のように光り、公園の時計はゆっくりと遅れ、自動販売機には名前のない飲み物が並んでいた。怖くはなかった。怖いのではなく、きれいだった。
やがてよるは気づく。この時間にだけ、もう一人いることに。コンビニの前でしゃがんで缶コーヒーを飲んでいる男。名前は教えてくれない。「カイでいいよ」とだけ言う。
深夜三時の世界で始まった関係は、深夜三時の空気の中でだけ成り立っていた。名前を知り、昼間に会い、「普通」の恋人になったとき、二人のあいだにあった何かが少しずつ形を変えていく。何も間違っていない。何も悪くない。なのに、コンビニの蛍光灯はただの蛍光灯に戻り、時計は正確に時を刻み始める。
日常のルールからほんの少し外れただけで、世界は違って見える。けれどその場所には、一度しか行けない。