あらすじ
「殿下の隣席は、もうお譲りいたします」
公爵令嬢イルゼは、扇を閉じてそう告げた。
礼をして、広間を出た。
十年、王太子の婚約者として、王宮の夜会を整え続けてきた。
名前で呼ばれることは、いつしか少なくなった。
代わりに、ご婚約者様、とだけ呼ばれていた。
婚約者の隣席は、毎回、乳姉妹に譲らされた。
殿下は「君なら分かってくれる」と繰り返した。
怒っているのではなかった。
疲れていただけだった。
ある朝、殿下は初めて「君のための席だ」と告げた。
その夜の広間で、その席には、また別の女性が座っていた。
イルゼは扉の外へ出た。
振り返らなかった。
回廊で、一人の文官が静かに立っていた。
その方は、十年前から、彼女の仕事を見ていた。
書類には残らない、見ていた人たちの記録があった。
譲り続けた隣席を、社交界の皆さまは、何と思って眺めていたのか。
名簿から、ある名前が消えるとき、流れは動くのか。
彼女の十年を、本当に知っていたのは、誰だったのか。