あらすじ
### 『完全分離の罠』
――薔薇と契約書の詩――
白い壁に
午後の陽が差し込む。
カサブランカは静かに揺れ、
この家が
「幸せの形」だと
誰もが信じていた。
一億円。
長い年月を数字に変え、
眠る時間を削り、
指先をすり減らして積み上げた、
母の人生そのもの。
けれど――
「親なんだから」
その一言で、
食事は義務になり、
洗濯は当然になり、
笑顔は消耗品になった。
二階では笑い声。
一階では、
湯気の消えた味噌汁。
完全分離型。
なのに、
心だけは
完全に切り離されていた。
熱に浮かされた夜、
時計の針だけが生きていた。
四十度の孤独。
置かれたゼリー。
閉まる玄関。
遠ざかる旅行鞄の音。
その瞬間、
母ではなくなった。
ただ、
契約を執行する者になった。
一枚の紙。
数行の条件。
押された印鑑。
情より強いものを、
彼女は知っていた。
帰宅した家族が見たのは、
「売却済」の看板。
風に揺れる赤い文字は、
まるで因果応報の旗。
叫び声も、
涙も、
法律の前では
ただの雑音だった。
薫子は新しい部屋で、
静かにハーブティーを淹れる。
ローズマリーの香り。
朝焼け。
小さなベランダ。
もう誰にも、
人生を搾取させない。
咲き誇る薔薇だけが知っている。
優しさとは、
無限ではないことを。