あらすじ
雨の日は、少しだけ過去に近づく。
古い商店街の外れに佇む喫茶店兼古書店――胡蝶雲憩。木の香りが染みついた店内には、天井まで届く本棚と、一台のアップライトピアノ、そして古びたバイオリンが置かれている。
ある雨の日。
駆け出しの小説家、莉瀬ゆらはいつものように胡蝶雲憩を訪れる。
かつて将来を期待されたピアニストだった彼女は、あるコンクールで優勝した日を境にピアノを弾くことをやめていた。
誰かを打ち負かして手にした賞賛が、どうしても美しいものだと思えなかったからだ。
その日、店にひとりの青年が現れる。
古本屋を営む薪原詩音。
穏やかな笑顔を浮かべる彼もまた、かつては将来を嘱望されたバイオリニストだった。
だが今は演奏の世界を離れ、本に囲まれた静かな暮らしを選んでいる。
二人は本の話をし、音楽の話を避け、雨の日ごとに少しずつ言葉を重ねていく。
好きな作家。
忘れられない一節。
読み終えた本を閉じたあとの寂しさ。
誰にも言えなかった後悔。
やがて互いが抱える「音楽を捨てた理由」を知った時、二人は気づく。
自分たちは音楽を嫌いになったのではなく、あまりにも愛しすぎていたのだと。
小説を書くことで過去を遠ざけようとしたゆら。
本を売ることで未練に蓋をした詩音。
そんな二人を見守るように、胡蝶雲憩では今日もクラシック音楽が流れている。