あらすじ
白い菊の香りがしていた。
涙は流れた。
けれど、その涙は
愛する人を失った悲しみだけではなかった。
毎朝、
機嫌をうかがわなくていい。
食卓で、
黙って耐えなくていい。
玄関の鍵が回る音に
怯えなくていい。
そんなことを思ってしまった。
棺の中のあなたは、
生きていた頃より静かだった。
優しかった日もあった。
笑い合った日もあった。
けれどいつからだろう。
私たちは夫婦ではなく、
加害者と被害者みたいになってしまった。
誰にも言えない。
言えるはずがない。
未亡人が安心しているなんて。
だから私は泣いた。
泣きながら、
胸の奥で小さく息を吐いた。
やっと終わった。
やっと眠れる。
やっと明日が怖くない。
その夜、
引き出しの奥から離婚届を取り出した。
あなたの署名。
あなたの判子。
私を捨てるための紙。
私はしばらく見つめて、
静かに笑った。
勝ったからじゃない。
復讐できたからでもない。
ただ、生き残ったから。
嵐の海で、
沈まずに済んだから。
窓の外では春の風が吹いていた。
カーテンが揺れる。
誰にも急かされない夜だった。
私は温かい紅茶を淹れ、
ひとりの食卓につく。
そして小さく呟く。
「明日は、何を食べようかな」
その言葉が、
二十年ぶりに自分のために考えた未来だった。