あらすじ
「私はいつも、決めるのが早すぎた」――。
前の夫のこと、遺産を巡るトラブル、男たちの笑顔。それらすべての失敗から逃げるように、主人公の「私」は言葉を飾り、比喩という防具をまとって過去を遠ざけてきた。しかし、夜な夜なめくる古い帳簿に並ぶ冷徹な数字だけは、いかなる言い訳も許さず、無慈悲に「私」の現実を突きつけていた。
そんなある朝、一台のキャンピングカーが「私」の庭先に滑り込む。車から降りてきたのは、カメラを肩にかけた一人の男だった。彼は地方のありのままの日常を、虚飾を排して「記録」する旅を続けているという。
彼に誘われ、「私」は地域の小さな食堂や山里の集落へと同行する。素朴な郷土料理の出汁の塩気、土地に生きる老人の飾り気のない言葉。それらは「私」の五感を揺さぶり、封じてきた記憶を呼び戻す。早く切れば褒められると信じていた幼少期、包丁を握る手首をそっと包み込み、「別の速さ」へと導いてくれた亡き母の手の重み。「私」は、待つことができずに逃げ続けてきた事実に、静かに向き合い始める。
一方、あるがままを記録するはずの彼もまた、送れなかった映像と、部屋の奥にしまわれた子ども用の小さな靴だけが残された喪失を、静かに抱えて生きていた。
直感のズレによる「誤予感」の冷たさを経て、それでも「私」は帳簿の余白に残された文字と、彼の傷跡を見つめ直す。言葉を何度も消し、じっくりと待つ時間を経て――「行く。」