あらすじ
西暦20XX年、東京。 救命救急医・椿院 玲奈(つばきいん れな)、二十七歳。腕は確かだが口は悪い。患者の前以外では笑わない。「命に値段はつけない」を信条に、上司にも警察にも噛みつく、業界の鼻つまみ者である。
ある雪の夜。彼女は、轢き逃げされた身元不明の老人を助けようとして、走ってきたタンクローリーに撥ねられる。
── 痛みはなかった。
目覚めた玲奈の鼻を突いたのは、白粉と汗と、饐(す)えた血の匂い。耳に届くのは、聞いたこともない訛りの女たちの嬌声と、夜風に鳴る三味線。
ここは、安政五年(1858年)、江戸・新吉原。徳川の世が、まさに崩れ落ちようとする幕末である。
倒れていた玲奈を拾ったのは、吉原一の大見世「松葉屋」の振袖新造(しんぞう)たち。彼女が運び込まれた先で待っていたのは、瀕死の禿(かむろ)の少女と──「蘭方を修めし女医師なり」と名乗る、ひとりの不思議な女。
その女の名は、楠本イネ。日本で最初に西洋医学を学んだ女である。
イネは玲奈の異常な医療知識を一目で看破した。だが詮索はせず、ただ言う。 ──「お前さま、訳がありんしょう。なら、ここに居ぃし。この籠の鳥たちは、お前さまが要る」。
こうして玲奈は、イネの「弟子」という偽りの肩書を授かり、女しか入れぬ大門の内に身を寄せることになる。籠の中の花たちが患う、堕胎、梅毒、結核、産褥熱。そして、ひたひたと忍び寄るコロリ(コレラ)の足音。
医療器具もない。薬もない。あるのは、令和の知識と、二本の手だけ。
──令和の救命医は、幕末の闇に何を遺せるか。 史実を変えてはならぬ。だが、目の前の命は、絶対に見捨てない。
これは、咲くために売られた花たちと、咲くことを忘れた女医の、一輪一輪の物語。