あらすじ
「冷酷な令嬢が笑うのは、石窯の前だけだった。」
婚約破棄されたその日、エルゼ・フォン・ハウゼンは泣かなかった。
王都中を震わせた冷酷な公爵令嬢が、辺境の荒れ地に追いやられても、表情ひとつ変えなかった。
——ただ、頭の中でひとつだけ考えていた。
(この辺境に、石窯はあるだろうか)
着いた初日。泣いていた見知らぬ子どもに、気づけばパンを渡していた。「明日、もっとおいしいのを焼いてあげる」と、口が勝手に言っていた。
翌朝、夜明け前に目が覚めた。手が自然に、粉をこね始めた。
いつか都に戻る。それは変わらない。——変わらない、はずだった。
粉まみれで、子どもたちに囲まれて、無口な騎士に見守られながら、エルゼはいつのまにか笑うようになっていた。
かつて王都を震わせた悪役令嬢が、今日も石窯の前で粉まみれになっている。
これは、冷たかった令嬢が、知らないうちに温かくなっていく話。