あらすじ
『凪の朝に、鍵を置く』
― 定年夫と、妻の退職願 ―
湯気の立つ味噌汁に
言葉は、もう沈まない
「お疲れさま」と置いた声は
皿の縁で、静かに乾いた
明日からの昼は
麺でいい、という一言が
音ではなく
温度として
背中に触れた
少しだけ
季節がずれた気がした
洗い桶の水はぬるく
手のひらの輪郭だけが
やけに確かだった
争わなかった日々のぶんだけ
私たちは
うまく壊れていったのだと思う
風のない海のように
波は立たず
ただ
戻らないだけの時間があった
期待をやめるというのは
諦めではなく
静かな手放しだ
名前を呼ばれない朝に
ようやく
自分の声が聞こえる
鍵を置く
それは
誰かを閉め出すためではなく
私が
外へ出るための音
振り返らないのは
強さではなく
もう
確かめる必要がないから
凪の朝
私は私に
退職を告げる
お疲れさま、と
そして
はじまりのほうへ
歩き出す