あらすじ
彼方から 第四話
「既読の向こう側」
午前零時四十分。
家の中は眠っていた。
二階の寝室。
子ども部屋。
廊下の常夜灯。
すべてが静かだった。
蓮だけが、眠れていなかった。
ベランダの手すりに肘を置き、スマホを見る。
画面には、夏帆とのトーク画面。
最後の一文。
あの夏の日のこと、ちゃんと終わらせたい。
既読の文字だけが冷たく残っている。
終わらせたい。
その言葉が、胸に引っかかった。
終わっていないのは、向こうも同じなのか。
それとも、ただ区切りをつけたいだけなのか。
蓮には分からなかった。
二十年も経てば、
人の気持ちは想像では届かない場所に行く。
タバコの火が短くなる。
昔の駅が浮かぶ。
夏の夜。
改札前。
約束の時間。
行かなかった自分。
あの日から、何かがずっと止まったままだった。
「まだ起きてるの?」
背後から声がした。
妻、真理奈だった。
パーカーを羽織り、眠そうな目で立っている。
「……ちょっとな」
「またタバコ?」
「一本だけ」
真理奈は蓮の手元のスマホに視線を落とした。
一瞬だった。
だが蓮は気づいた。
「誰?」
何気ない声。
何気なくない質問。
「昔の知り合い」
「ふーん」
真理奈はそれ以上聞かなかった。
聞かなかったというより、
聞く価値がないと思ったような顔だった。
「授業参観、来てたね」
「行くって言っただろ」
「珍しいから」
その言葉に棘はなかった。
棘がないことのほうが、痛い時もある。
真理奈は空を見た。
「里奈、ちょっと嬉しそうだったよ」
蓮は黙る。
「でもあの子、最近かなり見てるから」
「何を」
「私たちのこと」
風が吹く。
タバコの灰が落ちた。
「子どもの前でやめようよ。ああいう空気」
真理奈の声は小さかった。
責めるでもなく、泣くでもなく。
疲れていた。
蓮は何か言おうとして、やめた。
言い返せることもある。
納得いかないこともある。
でも、それをぶつけ合って何年も変わらなかった。
「……分かってる」
やっと出た言葉は、それだけだった。
真理奈はうなずき、家の中へ戻った。
扉が閉まる。
静寂が戻る。
蓮はスマホを開いた。
夏帆との画面。
指が震えるほどではない。
だが、少し重かった。
久しぶり。
あの日のこと、俺もちゃんと話したい。
送信。
数秒で既読がつく。
心臓が鳴る。
返信はすぐ来た。
土曜日、時間ある?
駅前の喫茶店で。
駅前の喫茶店。
二十年前、二人で一度だけ入った店だった。
まだ残っているのか。
それとも別の店か。
どちらでもよかった。
大事なのは場所じゃない。
逃げた時間に、向き合うことだ。
翌朝。
蓮はいつも通り、目覚ましの三秒前に目を覚ました。
だが今日は少し違った。
胸の奥で、止まっていた歯車が
ゆっくり動き出している気がした。
朝食の席。
里奈が牛乳を飲みながら言う。
「パパ、土曜日いる?」
蓮は一瞬止まる。
「午後は少し出る」
「ふーん」
里奈はそれ以上聞かなかった。
だが視線だけは、確かにこちらを見ていた。
子どもは敏い。
何かが変わり始めたことを、
大人より先に感じ取る。
出勤前。
玄関で靴を履く蓮に、真理奈が言った。
「今日、集金袋出した?」
「……忘れた」
「やっぱりね」
呆れた声。
だが最後に、小さく付け足した。
「帰りにでも払っといて」
その言い方が、昔より少し柔らかかった。
蓮は振り返らずに答える。
「ああ」
外は快晴だった。
雲ひとつない青空。
眩しくて、少し目を細める。
土曜日。
再会。
謝罪。
過去。
家庭。
全部が同時に近づいてくる。
蓮は歩き出した。
逃げずに進む朝は、
いつもより足音が重く、少しだけ強かった。
第四話 終
次回予告 第五話「喫茶店の窓際」
二十年ぶりに向かい合う蓮と夏帆。
語られる、あの日の真実。
言えなかった事情。
残っていた感情。
そして帰宅した蓮を待っていたのは、
無言で座る真理奈だった。