あらすじ
現在より五年前 首都ラーヴェン東区・旧収容所跡地
ヴェルダニア連邦公文書 抜粋 —— 作成年次不明
国家治安維持特殊部隊(通称:公安)は、連邦憲法第四十七条に基づき、公共の平和及び国民の生活を保護することを使命とする。その活動の詳細は国家機密に準じて管理され、議会への開示義務を有しない。
地下通路の奥から、誰かが泣いていた。
子どもの声だった。くぐもっていて、どこから聞こえるかもわからない。ただ確かに、息をひそめながら泣いている。
ラーナ・ヴェスは足を止めた。年齢は当時十二歳。赤みがかった狐色の耳を精一杯そばだてながら、冷たいコンクリートの壁に手を当てた。
「……誰かいるの?」
声は止まった。
返事はなかった。でも、息をする音が聞こえた。誰かいる。ラーナは壁の向こうに向かって、もう一度呼びかけようとした。
その瞬間、後ろから手首をつかまれた。
「何してる」
振り返ると、灰色の制服を着た男が立っていた。公安の腕章。ラーナより頭ふたつぶん背が高い。男は彼女の手首をつかんだまま、狭い通路の入口へと引きずるように歩き始めた。
「放して」とラーナは言った。声が震えた。「ここ、通っていけない場所じゃないでしょ。旧跡区に入っちゃいけないなんて、看板なかった」
「うるさい」
それだけだった。
男は一言もなく彼女を表通りに放り出し、踵を返して立ち入り禁止のロープを張り直した。ラーナは路上に尻もちをついたまま、しばらく動けなかった。
地下の声は、もう聞こえなかった。
そのあと五年が経った。ラーナは十七歳になった。尻もちをついたあの場所は、今は観光向けの石畳に整備されて、東区の「歴史的景観地区」に指定されている。ガイドブックには「ヴェルダニア連邦の近代化を象徴する地区」と書かれている。
泣いていたのは誰だったんだろう。
今でも、たまに考える。
その声を、ラーナはまだ忘れていない。