あらすじ
大正末期、神戸の女学校に通う佐倉美咲は、国語テストの最中に窓の外へ目をやり、校門前の桜の木の下に立つ学生服の青年を見つける。幽霊だった。声をかけると、青年は自分が「長門正一」という名前しか覚えていないと言った。記憶がなく、体もなく、なぜ桜の木の下にいるのかさえわからない。深く関わるつもりはなかった美咲は、しかしその日の夕方、桜の精と名乗る小さな子どもに呼び止められる。桜色の着物を着た少女はただ真剣な顔で「お兄さんを助けてあげたい。みーちゃん、いい?」と言って、花が散るとともに消えた。美咲の返事を待たずに。
翌朝、美咲は同じ朝を迎えていた。国語テストの日が繰り返されている。正一の記憶は毎朝リセットされ、美咲だけが昨日を覚えている。ループが始まった。何十回目かを数えることも、いつしかやめた。積み重なるのは美咲の記憶だけで、正一は毎朝同じ顔で同じ場所に立っていた。それでも美咲は毎朝話しかけた。昨日を知らない相手に、昨日と同じ言葉で。
繰り返しの中で、美咲は少しずつ情報を集めていく。新聞記者の父を持つ友人・千代から、元町で銀行爆破事件が連続していることを掴む。三件目の標的は湊銀行、犯人は三十代後半の痩せた男。正一が口にした「銀行」という言葉が頭に引っかかっていた。幼馴染の薔子の叔父が病院理事を務めていることを知り、正一の体が中山手の病院に眠っていることも突き止める。爆発に巻き込まれて意識不明のまま入院している、それが正一の現在だった。毎朝「初めて聞いた」顔を作りながら、美咲は少しずつ核心に近づいていった。
情報が揃ったある日、美咲は犯人の顔を確認するために放課後の元町へ一人で向かう。書店の軒先で張り込み、ついに犯人を視認する。しかし泣きながら怒鳴る男の姿を見て体が動いた。計画を破って腕を掴んだ瞬間、爆発に巻き込まれる。ループの中での死は翌朝リセットされる。しかし正一は、木の下からその瞬間をすべて見ていた。
その衝撃が引き金となり、正一の記憶がすべて戻る。以降、正一はループをまたいで記憶を持ち越すようになった。二人はようやく対等に話せるようになる。正一は美咲に「俺のために死ぬな」と静かに言う。感情が積み重なり、怒りが言葉になり、三ループ分の沈黙を経て「悪かった」という謝罪が出てきた。ループをまたいで感情が育つことを、二人はここで初めて経験した。
薔子の協力で病院を訪れた美咲は、四階の病室に眠る正一の体を目にする。火傷の痕、閉じた目、静かな呼吸。それでも生きていた。状態を確認し、美咲は確信する。終わらせられる、と。
最後のループ。美咲は正一の父・正典に面会し、摩耶山の社の記憶を手がかりに息子の存在を信じさせる。薔子が手配した人力車で元町に乗り込み、犯人を事前に警察へ通報して逮捕させる。その間に正一は自力で体へ戻ることを試み、学校のテストへと参加する。「来週テストがある」と思いながら爆発で倒れた人間が、今日ようやく教室の椅子に座った。問題はわからなくても、来たかった場所に来た。
ループが終わった。翌日の朝が来た。普通の翌日が、来た。
三日後、正一が意識を取り戻したと薔子から知らせが届く。坂の途中で立ち止まり、海を見た。よかった、と思った。本当に終わった、と思った。それだけで十分だった。一週間後、美咲は病院を訪れる。火傷の痕が残る顔で、正一は窓から海を眺めていた。久しぶりに見るものを確かめるような目だった。「海が見える」と正一は言い、「葉桜の季節だからか、風が通りやすいんかもしれない」と美咲は答えた。帰り際、「また来るか」と正一は言った。「来たら話せる」と美咲は言った。
見合いの答えはまだ出ていない。学校を続けるかどうかもまだわからない。でも今日があって、明日がある。
校門前の桜の木の下に、もう誰もいない。花は散り、葉だけが残っている。ループの中で何十回も話をしたあの木が、今日はただの木に戻っていた。あの子の声が少し聞こえた気がした。「葉っぱは残る。葉っぱは元気だよ」。
美咲は坂を上った。当たり前の今日が、少し光って見えた。