あらすじ
紹介文に代えて
ここに、本作の思想的アウトラインを示す。
本作は、現代においていっそう顕著となったある特有の観念を主題としつつ、同時に、人類史を通底してきた同じ、あるいはよく似た観念の持続を、小説という形式において結実させようとする試みである。
私の思想の根底には、世界の圧縮可能性という直観がある。もし、異なる次元量をもつ言語という系のうちに、世界や生活をある種ホログラフィックに再現する方法が文学、ことに小説であるのだとすれば、その前提には、そもそも世界が記述へ耐えるという事実がなければならない。
この世界は、物理的には膨大で連続的であるにもかかわらず、人間はそれを「木」「家」「敵」「家族」「私」「神」のような、粗いが実用に耐える単位へ圧縮して扱うことができる。これは計算機科学的にも情報工学的にもきわめて有利な条件であり、文明や記憶媒体や言語そのものが成立する前提でもある。もし世界が、わずかにも粗視化を許さない構造であったなら、言語も記録も推論も、ほとんど実用に耐えなかったはずである。
そして、そこから言語の発生という問題が立ち上がる。私はここ数年、魔術ということに関して、やや尋常ではない関心を寄せてきた。しかしその関心の根をたどれば、それはむしろ必然であったのだと、いまでは自己認識している。近代になって体系化された魔術の多くは、儀式の手続きや薬物の機序に、その効力の発現を託してきた。だが、最初に効力を持った魔術は、おそらく言葉による名付けであった。
言語とは、単なる音声記号ではない。世界を離散的に切り分ける圧縮装置であり、しかもそれは個人内の圧縮ではなく、共同体において共有される圧縮である。「これは木だ」「これは危険だ」「これは私だ」と名付けることによって、人間は世界に反復する構造を保存し、他者へ伝達し、協調することができるようになる。すなわち名付けとは、世界を扱いうるものにする最初の技術であり、形而上的観念を地上へ引き下ろす魔術である。
人間は、自分で自分を名付けて生まれてくるわけではない。名前、家族、戸籍、所属、肩書、罪名、診断名、アカウント名、ペンネーム。これらは人間を社会へ登録し、時間を越えて同一人物として保存する。だがその保存は、同時に拘束でもある。名前、ひいてはそれらの名に紐付く情報の鎖が、私が私であることを束縛する。
ここで、名付けと聖性とが、ある種の緊張関係のうちに立ち現れる。名付けは単なるラベルではなく、ほとんどサクラメントに近い。目に見えない自己や身分や所属を、目に見える形式によって成立させる行為だからである。洗礼名、魔法名、巡礼印、奴隷印、罪人の烙印。これらは、単に内面を表象するのではなく、その人間の存在形式そのものにすら成り代わる。ゆえに、サクラメントは、神聖な形式から救済性が抜け落ち、効力だけが残るとき、デーモン化(反転)する。
名を持つとは、呼び出し可能になることであり、記録可能になることであり、人間の認識形式に収まることでもある。ゆえに、もし神がみずからを「神」と名指したなら、それは神性の証明ではなく、名指されうる階層に属していたことの露見にほかならない。グノーシス的な文脈に準えれば、神は神の名を持つことによって、デミウルゴスの地位にまで身をやつしたのである。
現代においては、この構造が情報の厚化粧として、いっそう顕著に現れる。人間はもはや、裸の自然人として社会に現れるのではない。名前、戸籍、職業、学歴、SNS、検索履歴、購買履歴、顔写真、診断名、アカウント、ログ、属性推定といった情報をまとい、徐々に陰影を濃くしていきながら描かれていくデッサンのように生じてくる。情報は人間と社会の紐帯であると同時に、人間の本然を覆い隠しもする。本人そのものよりも、本人に関する情報の束のほうが、「その人らしさ」として扱われるのである。
これは、パーソナリティの離散化であり、量子化である。そしてその印象は、高度なデジタル化という時代の触感と、奇妙なほどによく重なっている。
文明は人間の自己同一性を一段高めた。高度情報化社会は、それを歴史上ほとんど比類のない高さにまで持ち上げた。だがその高さは、同時に、あまりにも冷たい大気へ我々を晒している。厳しい寒気が皮膚に自己を意識させるように、情報化社会は、私であること以外の存在の仕方を許さない。しかもそれは、本然としての私ではなく、斯様に積み重なる情報に圧せられ、硬化した化石のような私なのだ。
「マリアの百合にはサタンが宿る」
名指しは、反転を齎す最初の魔術である。
坂本忠恆