あらすじ
あらすじ
二十八歳の高橋涼子は、一人暮らしのアパートで毎夜キャベツを刻む。誰かのために作るわけではない。ただ、あの音を聞くために。
涼子が十二歳のとき、父は消えた。「蒸発」と母は言った。まるで今日の献立を告げるように。
それから十六年、涼子は街で父の背中を探し続けてきた。そして今日、電車の中でついに目が合った。男はゆっくりと、ただ静かに、視線を窓の外へ戻した。
その夜、台所に立った涼子は気づく。まな板の上に、かつて父が作ったものと同じ、細く均一な白い糸のようなキャベツが山になっていた。誰かに教わったわけでもない。教えてくれた人間は、十六年前にいなくなった。でも手は知っていた。
そして涼子はもう一つのことを知る。父が今日、視線を逸らした動作を、自分も十六年間し続けてきたことを。
登場人物
高橋涼子(たかはし・りょうこ)
本作の主人公。二十八歳。都内の古いアパートで一人暮らし。
十二歳の春に父が蒸発して以来、母と二人で育った。誰かのために料理することも、誰かと食事をすることも、長い間うまく想像できないまま大人になった。毎夜キャベツを刻む習慣だけが、十二歳から続いている。
見たくないものの前で、ゆっくりと視線を別の場所へ戻す——そういう生き方をしてきたことに、物語の中でようやく気付く。
涼子の父
物語には直接登場しない。涼子の記憶と、今日の電車の中に存在する。
涼子が十二歳のとき、借金とそれ以外の何かを抱えて姿を消した。とんかつの日になると流しの前に立ち、袖をまくり上げ、細く均一な白い糸のようなキャベツを作った。「料理ってさ、切り方で味変わるんだよ」が、涼子が覚えている唯一の教えだ。
消えた後も、技術だけは娘の手に残った。
涼子の母
夫が蒸発した後、夜遅くまで働き続けた女性。帰宅してもほとんど喋らなかった。感情が溢れそうになると、顔を上げて「ごはん食べた?」と言う。その癖は今も変わらない。
一度だけ台所で泣いているところを涼子に見られた。声をかけられた瞬間、すぐに顔を上げた。娘に悲しみを見せることを、意地でも拒んだ人だった。今も月に一度、電話をよこす。