あらすじ
天明の飢饉の翌年、没落した儒者の祖父に大坂の豪商・鴻池屋へ売られた少女・糸。奉公人として六年を過ごす彼女に祖父が残したのは、たった一つの約束と、一言の言葉だった。
「字は鎖にも翼にもなる」。
読み書きを学んだことで糸は「予備の嫁」としての価値を持ち、鴻池屋に縛られる。しかし同じ字が、やがて彼女を海へ連れ出す翼になる。
住吉大社への参詣の道中、朱帆衆——瀬戸内を支配する海賊船団——に連れ去られた糸は、その頭領・千代と出会う。美しく恐ろしく、燃える炭のような目を持つ女。彼女もまた、字を持たない者だった。
「教えよ。そうすれば船に残ってよい」。
糸は千代に字を教え、千代は糸に海を教える。稽古は続く。「一」という字から始まる、毎日の、小さな、確かな積み重ね。
そしてやがて、三世代にわたる祖父の計画が明かされる。字は死を越え、時間を越え、人から人へと渡っていく。
これは、値段をつけられていた少女が、自分の言葉を持つまでの物語。難しき道よ、難しき道よ——その岐路は今いずこにある。