あらすじ
恋人を事故で亡くした「私」は、春になっても蜜柑を買い続けていた。
冬の間、彼女は毎晩のように台所で蜜柑を剥き、静かに食べていたからだ。
爪が皮に沈む音。
果肉を噛む小さな音。
部屋に満ちる、甘く湿った柑橘の香り。
忘れられない記憶だけを残して、彼女は死んだ。
だが四月のある夜、暗い台所で再び“その音”が響く。
――ぶつ。
――くち。
そこにいたのは、死んだはずの恋人だった。
増え続ける蜜柑。
腐敗していく果実。
冷え切った部屋。
そして彼女は囁く。
「まだ冬でしょう?」
柑橘の香りに満ちた部屋で、男はやがて思い出す。
事故の瞬間、本当は誰が生き残るはずではなかったのかを。
静かな咀嚼音が耳に残る、冬の怪談。