あらすじ
結婚して五年。わたし――ネリッサ・ヴェーデル公爵夫人は、夫に一度も名前を呼ばれたことがない。
政略結婚の駒として嫁いだ先で待っていたのは、夫の無関心と、王宮社交界の残酷な洗礼だった。口を開けば嘲笑され、声を上げれば「身の程を知れ」と叩かれる。それでもわたしは耐えた。実家に帰る道はとうに閉ざされていたから。
けれど、ある夜。わたし付きのメイド長が不審な死を遂げる。宮廷は「病死」と片づけようとするが、わたしの目は見逃さなかった。彼女の爪の下に残された、ありえないはずの異国の香辛料の痕跡を。
真相を追ううちに、宮廷文書を管理する青年リヒトと出会う。無愛想で、誰にも媚びない。けれどわたしが示した小さな証拠を、彼だけは笑わなかった。
手続きと証拠で戦う。静かに、確実に。わたしの武器は、五年間の沈黙の中で磨いた観察眼と、壊れた心が恐れを忘れたという一点だけ。
やがて暴かれるのは、夫の裏切りか。それとも、この王宮そのものが隠してきた闇か。
――壊れたはずのわたしの心が、もう一度だけ揺れている。