あらすじ
朝倉健二、二十九歳。オカルト雑誌「レムリア」の記者。
霧島游と灰原理人——相反する二つのペンネームを使い分け、信じる記事と疑う記事を同時に書き続ける。霧島名義の煽り記事はバズり、数字を稼ぐ。灰原名義の硬派な考察は不評だが、紙の読者には届く。どちらの名前でも、健二自身の声では書いていない。文芸部を志してREIMEIに入社したはずが、配属二年目に部が縮小され、念願の担当誌はあっけなく休刊。漂流の果てに辿り着いたのが、このオカルト雑誌の編集デスクだった。二つの顔を使い分け、相反する真実を同時に書き上げる日々。その境界線で立ち止まるたび、健二は自分が実体のない幽霊へと変わりつつあるような錯覚に襲われる。
担当ライターが突然失踪した。穴埋めで回ってきた仕事は、社屋地下書庫の取材だった。鈴木編集長から鍵を渡される。「大正から続く歴史の宝庫よ。何か拾えるはずだわ」。健二は乗り気でないまま、地下へ降りた。
書庫は整然としていた。温度と湿度が管理された棚が壁一面に並び、戦前の資料のほとんどはマイクロフィルムに移され、現物の紙はほぼ残っていない。空襲で焼けたものも多かった。その中に一つだけ、分類されていないものがあった。粗末な木箱。ラベルも番号もない。返す当てのない原稿と、受け取り手のない遺品。誰かが捨てられずに置いたまま、誰も触れなかったのだろう。
箱の中には、古い原稿用紙の束と、白なめしの手帳が入っていた。
原稿の表紙には「真珠の衣」と書かれている。健二はなぜか、先に手帳へ手を伸ばした。革が、体温に近い温度を持っていた。なぜ持ち帰ったのか、後で思い出せなかった。
「真珠の衣」は、大正末期から昭和初期にかけて黒曜舎で活動した作家、佐伯玄一の連載小説だった。美しい娘の皮を剥ぎ、それを被ることで娘に化ける男の物語。発表と同時に世間を震撼させ、即座に発禁処分を受けた。問題は内容の残酷さだけではなかった。小説には、犯人でなければ知りえないはずの事実が書かれていた。皮を剥いだこと。遺体を捨てた場所。当時進行中だった剥皮事件の、警察が公表していない詳細と、ことごとく一致していた。玄一は拘留され、取調べ中に死亡。被疑者死亡により、事件は幕引きとなった。
しかし健二には、腑に落ちないことがあった。
玄一が死んだ後も、事件は一件だけ起きている。拘留中の人間が犯せるはずのない事件が。それは記録の隅に、ほとんど読まれることなく残っていた。灰原理人として培った調査の習慣が、健二の手を動かし続けた。マイクロフィルムを繰り、古い新聞の縮刷版を漁り、当時の警察記録の断片を繋ぎ合わせる。
真相は、記録の外側にあった。
玄一が死んだ直後、一人の男が警察に自首していた。河本隆蔵。姫路の白鞣し職人だった。皮を扱う家系であるというだけで「穢れている」と蔑まれ、石を投げられ、それでも腕だけを磨き続けた男。彼にとって殺人は命を奪うことではなかった。腐敗へと向かう肉体から「永遠の美」を救い出す、救済だった。その手によって皮を剥がれ、手帳のカバーに変えられたのは、玄一の妻・はるだった。玄一はその事実を知りながら、毎日手帳を撫でて小説を書き続けた。「真珠の衣」は文学ではなかった。呪いの設計図だった。
自らの「芸術」を死人の罪として終わらせることを、隆蔵は許さなかった。だが警察は、被差別部落の男の告白を公にする気はなかった。苦労して幕引きにした事件を蒸し返すわけにはいかない。隆蔵は密かに消された。
それが隆蔵の望みだった。不当な死は呪いを強める。あとは「真珠の衣」の続きを書く者が現れさえすれば——呪いは完成する。完成すれば、小説を読んだ者が狂い、死ぬ。惜しむらくは、玄一が死んだことで書き手を失い、その完成が遠のいたことだった。呪いは未完成のまま、誰も触れない木箱の中で、長い年月を眠り続けた。
健二は姫路へ向かう。土地の老職人・中本義雄に手帳を見せると、義雄の顔から表情が消えた。長い沈黙の後、老人はただ言った。
「……燃やせんのでしょう」
問いではなかった。確認だった。それ以上、義雄は何も語らなかった。
しかし健二にはもうわかっていた。自分が何を掘り当てたかを。真相に辿り着いた瞬間、すでに手遅れだったことも。
帰りの新幹線の中で、健二はPCを開いた。指が動き始めた。
ある夜、月明かりの中で手帳を開くと、白紙だったはずのページに文字が浮かんでいた。細く、震えるような筆跡で、同じ言葉がページを埋め尽くしている。
きれいでしょう きれいでしょう きれいでしょう
気づいたときには、それはそこにあった。第四回から最終回まで。「了」の一文字とともに、完結した「真珠の衣」が健二のPCに保存されていた。手帳を燃やそうとした。指が動かなかった。捨てようとした。気づいたら家に戻っていた。
記事は書かない。公開しない。それだけが、今の健二に残された選択だった。
そのはずだった。
しかし画面を開くと、すでにそれはそこにあった。霧島游名義で。タイトルは「真珠の衣・完結——封印された大正の作家が遺したもの」。
なぜ——これが、ある。
削除しようとした。マウスに手を伸ばした瞬間、指の上に何かが重なった。
やわらかい、女の手が。
健二が死んだのは、夜明け前だった。
午前七時、記事は公開された。「真珠の衣」を読んだ者が、死ぬ。