あらすじ
二十年前まで、戦争の主役は人間だった。
槍を持つ歩兵。
馬に乗る騎兵。
魔導士による後方支援。
城壁を崩す攻城兵器。
国家の強さとは、どれだけ多くの兵を集め、どれだけ長く戦線へ送り続けられるかで決まっていた。
だが、技術革新がすべてを変えた。
魔導炉の小型化。
駆動系の安定化。
そして、人型自律兵器――ゴーレムの実戦投入。
それまで工事用、儀礼用、あるいは一部の貴族が所有する高価な魔導人形にすぎなかったゴーレムは、軍事兵器として急速に進化した。
一機のゴーレムは、百人の歩兵を押し返した。
城門を砕き、塹壕を踏み越え、魔導士の防壁を腕力で破った。
戦場の常識は塗り替えられた。
兵士の数ではなく、機体の性能。
槍の長さではなく、駆動方式。
兵站の多寡ではなく、稼働率と整備性。
歩兵同士がぶつかる時代は終わり、ゴーレム同士が戦線を押し潰す時代が始まった。
その中心にいるのが、二つの大国だった。
西のアルディア帝国。
東のヴァルグラント連邦。
国土、人口、資源、経済力。
どちらもほぼ互角。
だが、ゴーレムの技術思想だけはまるで違っていた。
アルディア帝国の主力は、魔導回路式ゴーレム。
魔導炉から生じた力を、機体内部の回路へ流す。
魔導回路式は、それらを細かく制御することで、人間の反応を機体へ遅れなく伝えようとする方式だった。
軽い。
速い。
反応がいい。
その代わり、構造は複雑で、整備には熟練した技官を必要とした。
アルディアのゴーレムは、魔導回路で動く。
一方、ヴァルグラント連邦の主力は、脈管駆動式ゴーレム。
鋼鉄の骨格に人工筋繊維を巻き、生体管を束ねた脈管へ循環液を通す。
圧力で関節を押し動かし、巨大な腕や脚を動かす。
重い。
硬い。
怪力。
その代わり、内部構造は機械というより生物に近かった。
損傷すれば、血のような赤黒い循環液を流す。
整備は修理というより、治療や培養に近い。
ヴァルグラントのゴーレムは、筋肉と血管で動く。
同じゴーレムと呼ばれていても、二つは別の生き物だった。
両国は互いを憎みながら、同時に互いを進化させていた。
一方が優れた機体を作れば、もう一方も対抗機を生み出す。
一方が新型炉を実用化すれば、もう一方は装甲材を改良する。
戦争は止まらない。
そして今、その均衡が崩れようとしていた。
ヴァルグラント連邦が、新型重装格闘型ゴーレム《ベヒモス級》を実戦投入したのだ。
高さ九メートル。
分厚い装甲。
城壁を殴り砕く怪力。
腕部と脚部を走る巨大な脈管束。
胸部には、機体全体へ圧力を送り込む中枢が埋め込まれている。
前線から届く報告は、どれも芳しくなかった。
帝国の既存機では止められない。
正面から受ければ潰される。
横へ回り込もうとしても、巨腕の一振りで吹き飛ばされる。
魔導回路式の軽快さをもってしても、ベヒモス級の圧倒的な耐久と怪力を崩せなかった。
その報告を、アルディア帝国軍技術局の地下試験室で読んでいた男がいる。
エリク・ヴァン・ハルト。
若くして帝国軍技術局、第七開発部の主任士官となった男。
そして今、帝国の次世代ゴーレム開発を背負わされている男だった。
分解台の上には、鹵獲されたベヒモス級の腕部が固定されている。
正式な鹵獲機ではない。
前線で撃破された機体から、辛うじて切り離して持ち帰った一部にすぎない。
それでも、価値はあった。
分厚い外装。
異様に太い関節部。
装甲の内側を這う脈管束。
圧力室。
脈動弁。
そして、黒く粘る赤黒い循環液。
だが、帝国機なら真っ先に目につくはずのものがない。
魔導回路だ。
帝国機にとっての魔導回路にあたるものが、連邦機にはない。
若い技官が、分解台の前で顔をしかめた。
「……これを、本当にゴーレムと呼ぶのですか」
エリクはすぐには答えなかった。
知っていた。
ヴァルグラント連邦の重装機が、脈管駆動式であることは。
人工筋繊維と生体管を束ね、循環液を圧送して関節を動かすことも。
報告書で読んだ。
断面図も見た。
解析資料にも目を通している。
だが、知識として知っていることと、実物を目の前にすることは違った。
切断面から、粘つく液体が落ちる。
束ねられた人工筋繊維が、わずかに痙攣している。
脈動弁は金属部品というより、臓器に近かった。
整備ではない。
解剖だ。
エリクは喉の奥にこみ上げる嫌悪を押し殺した。
本来、兵器というものは、戦場でぶつかり続ければ少しずつ似てくる。
剣もそうだった。
片方の国が長剣を使い、もう片方が反りのある刀を使っていたとしても、鎧を斬る必要があれば刃は厚くなり、騎兵を相手にする必要があれば長さや重心は変わる。
槍も、弓も、攻城兵器も同じだ。
敵から学ぶ。
敵に対抗する。
真似られるものは真似る。
真似られないものは、自国の技術で置き換える。
そうやって兵器は、完全に同じにはならなくても、同じ問題に対する似た答えへ近づいていく。
だが、ゴーレムだけは違った。
二十年近く戦い続けているにもかかわらず、アルディアとヴァルグラントの機体は混ざらない。
近づきもしない。
むしろ、戦争が進むほど、互いに別方向へ伸びている。
魔導回路式。
脈管駆動式。
同じゴーレムと呼ぶには、あまりに違いすぎた。
「主任」
技官が恐る恐る口を開いた。
「この構造を、こちらの機体へ応用することはできませんか」
「無理だ」
エリクは即答した。
「構造自体は理解できます。脈管束が圧力を伝え、人工筋繊維が収縮する。関節部の出力は、確かに帝国機を上回っています」
「分かることと、作れることは違う」
エリクは太い脈管を指で示した。
「この管ひとつ取っても、帝国の工房では作れない。循環液の成分も不明。人工筋繊維の培養設備もない。脈動弁を維持する保存技術もない。整備兵ではなく、外科医と培養技師が必要になる」
技官は黙り込んだ。
エリクは続ける。
「仮に部品だけ真似ても、魔導回路式の機体には馴染まない。神経で動く機体に、他人の筋肉と血管だけ縫いつけても動かん」
分解台の上の腕から、赤黒い循環液がまた一滴落ちた。
エリクは奥歯を噛んだ。
「参考にはなる。だが、取り込めない」
そこに答えがある。
敵の強さの理由が、目の前にある。
だが、それは帝国の言語では読めない。
仮に読めたとしても、帝国の技術には変えられない。
エリクは低く呟いた。
「これは、帝国のゴーレムとは別の生き物だ」
その数日後。
エリクは主任室で、机の上に積み上がった設計案と向き合っていた。
「……駄目だ」
一枚の設計図を放る。
紙が机の上を滑り、床に落ちた。
補佐官が拾い上げる前に、エリクは次の案へ手を伸ばす。
しかし、目を走らせた瞬間、また同じ結論に至った。
「これも駄目だ。重すぎる。こんな脚部では湿地戦に出せない」
「しかし主任、火力だけなら――」
「火力だけならな。だが、戦場に砲台を置きたいわけじゃない。ゴーレムを作っているんだ」
補佐官は黙った。
その沈黙すら、今のエリクには苛立たしかった。
重装甲型は重すぎる。
高火力型は移動砲台にすぎない。
近接特化型はベヒモス級と殴り合えば負ける。
連邦式の模倣案は、技術的にも倫理的にも不可能。
帝国式のままベヒモス級を止めなければならない。
だが、帝国式の強みである精密さと反応速度を殺せば、そもそも勝ち筋がなくなる。
「主任」
別の技官が、遠慮がちに紙束を差し出した。
「一般応募の設計案です。確認だけでも」
「そんなものに使う時間はない」
「ですが、規定では一応、主任の確認が必要です」
「規定を作った奴をここへ呼べ。俺が説得してやる」
「すでに退役しております」
「賢明だな」
そう言いながらも、エリクは紙束を受け取った。
一般応募。
帝国が技術者不足を補うために始めた制度だった。
軍人、工房職人、学生、地方貴族の趣味人。
誰でも設計案を送ることができる。
もちろん、ほとんどは使い物にならない。
巨大な剣を持たせれば強い。
装甲を厚くすれば壊れない。
魔導炉を三つ積めば出力が上がる。
そういう子供の夢を、設計図の形にしたものばかりだ。
エリクは半ば流れ作業で紙をめくった。
一枚目。論外。
二枚目。関節強度が足りない。
三枚目。魔力伝達効率を知らない素人。
そして、十数枚目で手が止まった。
「……誰だ、これは」
補佐官が顔を上げる。
「どうされました?」
エリクは答えなかった。
設計図に記された機体は、奇妙だった。
帝国式の魔導回路技術を土台にしている。
だから完全な異物ではない。
だが、回路の配置が違う。
魔導炉から四肢へ力を流すのではなく、各部に小さな循環回路を作り、負荷を分散している。
機体の骨格も、従来の重厚な支持架ではなく、必要な箇所だけを強化する構造になっていた。
軽い。
速い。
それでいて、脆さを逃がす場所まで計算されている。
連邦式の模倣ではない。
帝国式魔導回路を、帝国の技術言語のまま数世代先へ押し進めた設計だった。
エリクは口元を押さえた。
「……ふざけている」
「また欠陥ですか?」
「逆だ。数世代先の発想だ」
室内の空気が変わった。
エリクは設計図の隅に書かれた署名を見る。
Lias。
読みは、おそらくリアス。
聞き覚えのない名だった。
「諜報部に回せ。この提出者を調べろ。身元、経歴、所属、接触者、全部だ」
「危険人物ですか?」
「この設計を本気で書いたなら危険だ。冗談で書いたなら、なおさら危険だ」
数日後、諜報部から報告が戻った。
だが、そこに書かれていた内容はあまりに薄かった。
戸籍なし。
国籍なし。
軍歴なし。
工房登録なし。
帝都への正式な入城記録もなし。
リアスという名の人物は、少なくとも帝国の記録上、存在していなかった。
ただ一つだけ、分かっていることがあった。
設計図の末尾に、住所のようなものが記されていたのだ。
帝都外縁、第六排水塔跡。
日没後。
一人で来い。
補佐官が顔をしかめた。
「罠では?」
「罠だろうな」
「では、行かない方が」
「行く」
「主任」
「この設計図は、罠だと分かっていても踏む価値がある」
エリクは設計図を畳み、軍服の内ポケットに入れた。
「護衛は?」
「少し離して配置する。相手の条件を完全に呑むほど馬鹿ではない」
「一人で来い、とありますが」
「俺が一人で行く。護衛がいないとは言っていない」
補佐官は苦い顔をしたが、反論はしなかった。
その夜。
帝都外縁、第六排水塔跡。
かつて水路を管理していた施設は、今では半ば廃墟になっていた。
石壁には蔦が絡み、折れた配管からは冷たい水音が響いている。
エリクは一人でその中へ入った。
もちろん、完全な一人ではない。
周囲には諜報部の人間を伏せてある。
狙撃班もいる。
逃走経路も押さえた。
それでも、エリクは落ち着かなかった。
奥へ進むと、崩れた制御盤のそばに一人の青年が立っていた。
歳は若い。
未成年と言われれば、そう見えなくもない。
だが、その目だけは違った。
こちらを待っていたというより、すでに観察を始めていた。
「エリク・ヴァン・ハルト」
青年が言った。
「来ると思っていた」
エリクは足を止める。
「君がリアスか」
「ああ」
「帝国の記録に君はいない」
「だろうな」
「偽名か?」
「名前は本物だ。ただ、この国のものではない」
「どこの国だ」
「お前が知る国ではない」
エリクは目を細めた。
「回りくどいな」
「事実を短く言っているだけだ」
リアスは感情の薄い声で続けた。
「設計図は見たな」
「ああ。見た。だから来た」
「なら十分だ」
「十分ではない。君はどこで魔導回路技術を学んだ」
リアスは少しだけ首を傾けた。
「見れば分かる」
「見ただけで、あれが書けると?」
「必要な構造を追えば、だいたいは分かる」
「だいたいで書ける設計ではなかった」
エリクの声には、隠しきれない警戒があった。
「君の図面は、帝国式を土台にしている。だが、帝国のどの工房にもない発想だった。回路の負荷分散、骨格の逃がし、局所循環。あれは既存技術の改良ではない。数世代先の設計思想だ」
「なら使えばいい」
「目的を聞いている」
「結果を見ることだ」
「兵器の?」
「技術の」
「あれが戦場に出れば、人が死ぬ」
「戦場に出しているのは国家だ」
「責任を分けるつもりか」
「違う。責任の所在を混同するなと言っている」
エリクは黙った。
不快だった。
だが、筋は通っていた。
「軍の研究室に来る気はないか。待遇は保証する」
「断る」
「理由は?」
「管理されると、観察できる範囲が狭くなる」
「観察だと?」
「そうだ」
リアスは淡々と言った。
「その設計で何が起きるのかを見たい」
エリクは、目の前の青年を見つめた。
名誉を欲しがる者の目ではない。
金を求める者の目でもない。
祖国への忠誠も、帝国への憎悪も見えない。
それが、何より不気味だった。
「手柄はどうする」
「必要なら全部持っていけ。俺の名は出さなくていい」
「それでは君に何も残らない」
「残す必要がない」
「……後悔するかもしれないぞ」
「後悔は、判断材料が不足していた者がすることだ」
エリクは息を吐いた。
「君は、自分の設計が戦場を変えると分かっているのか」
「分かっている」
「それでも渡すのか」
「渡す」
会話はそこで終わっていた。
リアスはそれ以上、説明する気がないようだった。
帝国軍技術局は、その日から動き出した。
新型試験機。
正式名称、G-01《アイゼン》。
リアスの設計を基礎に、エリクが軍用機として再調整した機体だった。
反応速度は高い。
魔力伝達も滑らか。
従来機より軽く、操縦者の動きに機体が遅れない。
だが、問題は残った。
ベヒモス級に正面からぶつけるには、装甲と出力が足りない。
開発室で試験結果を見た若い技官が言った。
「本体を改修しますか?」
「それでは間に合わない」
「では、どうやってベヒモスを倒すんです?」
エリクは机の上に別の図面を広げた。
「本体をいじらない」
「え?」
「外から足す」
図面に描かれていたのは、巨大な砲撃ユニットだった。
外付け遠距離兵装。
《LRU-01 長距離魔導加速砲》。
背部に大型魔導炉ユニット。
右肩に長砲身レールキャノン。
魔力を加速コイルへ変換し、圧縮弾として射出する。
有効射程、四キロ。
技官たちは息を呑んだ。
「ですが、こんなものを背負えば機動性が死にます」
「撃つ間は動かない。動く必要が出たら捨てる」
「捨てる?」
「砲は本体ではない。勝つための道具だ」
エリクは図面を叩いた。
「ベヒモス級の装甲を遠距離から削る。接近される前に中枢を抜ければそれでいい。無理なら砲身と炉をパージして離脱する」
「離脱、ですか」
「本来はな」
エリクは少しだけ目を細めた。
「念のため、予備兵装も載せる」
「予備兵装ですか?」
「本命は長距離魔導加速砲だ。だが、それを失えばアイゼンは丸腰に近い」
エリクは図面の余白に、いくつかの装備案を書き足した。
「砲を失った時、機体と操縦士を生かすための装備だ。離脱用、牽制用、近距離用。使わずに済むならそれでいい」
「ベヒモス級を倒すためのものではない、と」
「当然だ。あれを予備兵装で倒せるなら、誰も苦労しない」
技官は言葉に詰まった。
エリクは図面から目を離さず、淡々と言った。
「戦場は想定通りには動かない。だから、想定外に耐える余白だけは残しておく」
それ以上、技官は反論しなかった。
数日後。
帝国北部、グラナ平原試験場。
なだらかな草原の奥に観測所が設けられ、軍関係者たちが並んでいた。
将官、技官、整備班、記録係。
誰も軽口を叩かない。
今日の試験結果次第で、帝国の方針が変わる。
輸送台車に乗せられた巨大な鉄の影が、ゆっくりと試験場へ運び込まれた。
G-01《アイゼン》。
灰色の装甲。
無駄を削った細身の機体。
右肩には長大な砲身。
背部には、機体本体と不釣り合いなほど大きな魔導炉ユニット。
腰部には、予備兵装として二丁のHG-01 軽量魔導拳銃が格納されている。
観測所の通信機が鳴った。
『こちらアイゼン。操縦リンク正常』
リディア・ファルク少尉の声だった。
帝国軍でも屈指のゴーレム操縦士。
反応速度と機体感覚に優れ、壊れかけの機体でも戦闘を続ける腕を持つ。
この試験には、彼女が必要だった。
『魔力供給……ちょっと変わった方式ね。でも嫌いじゃない』
エリクは通信卓の前に立つ。
「違和感は?」
『ある。でも、遅れじゃない。癖ね。慣れれば速い』
「なら、慣れろ」
『了解』
その時、遠方の丘が揺れた。
最初は地鳴りだった。
次に、土煙が上がる。
観測士が望遠鏡を覗き、顔色を変えた。
「敵機接近!」
将官たちが一斉に立ち上がる。
「所属は!」
「ヴァルグラント軍! 重装格闘型ゴーレム、ベヒモス級です!」
試験場がざわめいた。
偶然ではない。
連邦はこの試験を嗅ぎつけていた。
敵機は地面を踏み割りながら進んでくる。
高さ九メートル。
城壁のような装甲。
杭のように巨大な拳。
胸部には、青白い中枢光が鈍く脈打っている。
観測士が叫んだ。
「距離二八〇〇!」
通信越しに、リディアが言う。
『エリク技師』
「なんだ」
『撃っていい?』
エリクは一拍だけ置いた。
頭の中で距離、風向き、砲身角、敵の進行速度を並べる。
「一発目は当てなくていい。弾道を見る。撃て」
『了解。試射する』
アイゼンの右肩が持ち上がる。
長砲身に魔力が流れ、加速コイルが青く発光した。
次の瞬間、轟音。
放たれた魔導弾は空気を裂き、ベヒモス級の左側をかすめて地面を爆ぜさせた。
観測所の窓が震える。
「外れ!」
「距離二三〇〇!」
エリクは表示板に走る数値を見た。
弾道の沈み。
風のずれ。
敵の歩幅。
炉出力の揺らぎ。
「偏差修正、プラス〇・八度。砲冷却四十パーセント。第二射、急げ」
『任せて』
アイゼンが再び構える。
ベヒモス級は止まらない。
むしろ、速度を上げている。
距離二〇〇〇。
第二射。
今度は当たった。
魔導弾がベヒモス級の右胸部を直撃し、厚い装甲を外側から剥ぎ取った。
鋼鉄の破片が雨のように飛び散る。
その奥から、赤黒い液体が噴いた。
観測所の空気が、一瞬だけ凍った。
油ではない。
少なくとも、エリクにはそう見えなかった。
剥き出しになった胸部の奥で、太い脈管が脈打っている。
束ねられた人工筋繊維が、肉のように収縮している。
破れた脈管の断面から、どろりとした循環液が拍動に合わせて漏れ出していた。
「……血か?」
誰かが呟いた。
エリクは答えられなかった。
違う。
そう言えるだけの知識はあった。
あれは血ではない。
ただの循環液だ。
関節を動かすための、圧を伝える液体にすぎない。
そのはずだった。
だが、裂けた脈管が震え、赤黒い液が地面に落ちるたび、誰もそれを破損とは呼べなかった。
負傷だった。
ベヒモス級が、低く唸るように中枢を震わせた。
その巨体は、壊れた機械というより、傷ついた獣に見えた。
エリクは喉の奥にこみ上げる嫌悪を押し殺した。
理解できる。
理屈は分かる。
それでも、気持ち悪かった。
ベヒモス級は低く身を沈め、胸部の中枢光を脈打たせた。
右腕の装甲が割れ、大口径の銃身が現れる。
その黒い穴が、まっすぐこちらを向いた。
観測士の声が裏返った。
「敵、圧力衝撃砲準備!」
距離一五〇〇。
エリクは端末を見る。
敵装甲。
剥がれている。
だが、中枢はまだ生きている。
砲冷却は二十五パーセント。
無理に撃てば、砲身が破裂する危険があった。
リディアが通信を入れた。
『どうする? 撃てば抜けるかも』
「撃つな」
観測所の将官が振り返る。
「なぜだ! 今なら――」
「砲が爆発すればアイゼンごと失う」
「では逃げるのか!」
「そのつもりだった」
エリクは通信機に向かって言った。
「リディア少尉。砲身と背部炉をパージしろ」
一瞬、通信が沈黙した。
それから、リディアが笑った。
『そう来たか』
「機動力を戻す。離脱しろ」
『離脱ね。できれば、そうしたいところだけど』
その声には、奇妙な軽さがあった。
アイゼンの背部固定具が弾けた。
巨大な魔導炉ユニットが外れ、地面へ落ちる。
続いて右肩の長砲身が切り離され、土煙を上げて転がった。
整備班が計測値を叫ぶ。
「機体重量、三十二パーセント減少!」
「脚部トルク回復!」
「反応速度、上昇しています!」
その瞬間、ベヒモス級の銃口が唸りをあげた。
圧縮された衝撃波が、草原を削りながら一直線に走る。
だが、そこにアイゼンはいなかった。
軽量化された機体が、横へ跳んだのではない。
滑るように、射線から消えていた。
衝撃波が背後の丘を吹き飛ばす。
観測所に土煙が押し寄せた。
「回避成功!」
誰かが叫んだ。
エリクは表示板を見た。
反応が速い。
従来機なら、操縦者が回避を選んでも、機体がついてこない。
一拍遅れる。
その一拍で、ベヒモス級の攻撃範囲から逃げ遅れ破損しただろう。
だが、アイゼンは違った。
魔導回路の負荷が分散されている。
脚部の応答が遅れない。
重心補正が、操縦者の動きに追いついている。
リディアの判断に、機体が遅れていない。
「これが……」
エリクは思わず呟いた。
リアスの設計思想。
その本当の価値が、ようやく戦場で形になっていた。
それでも、ベヒモス級は止まらなかった。
右腕の大口径砲をこちらへ向けたまま、巨体を前へ押し出してくる。
発砲。
地面が爆ぜ、破片が装甲を叩いた。
リディアが機体を横へ滑らせる。
回避以外の手段はなかった。
次弾。
さらに次弾。
回避は正確だった。
訓練通りに機体を逃がし、砲撃の直撃だけは避け続ける。
だが、その間にも、ベヒモス級は砕けた装甲を鳴らし、循環液を撒き散らしながら前進していた。
射撃で足を止めるのではない。
射撃でこちらの足を止め、回避に追い込みながら、距離を潰してくる。
気づいた時には、射撃の間合いが、殴り合いの距離に変わっていた。
ベヒモス級が巨腕を振り上げる。
正面から受ければ終わりだ。
殴り合えば、アイゼンに勝ち目はない。
相手は重装格闘型。
拳と装甲と怪力で、敵を押し潰すための機体だ。
アイゼンが同じ土俵に立つ必要はなかった。
『エリク技師』
通信越しに、金属音が響いた。
アイゼンの腰部装甲が開く。
左右に格納されていた短銃型の兵装が、リディアの手に収まった。
二丁のHG-01 軽量魔導拳銃。
本来は近距離防衛用の予備兵装だった。
主武装ではない。
ベヒモス級を倒すための装備ではない。
「リディア少尉、それは予備兵装だ」
『今は予備しか残ってないでしょ』
エリクは反論できなかった。
ベヒモス級の拳が地面を砕いた。
アイゼンは跳ばない。
大きく逃げない。
それでは次の一撃に捕まる。
リディアは、機体を低く沈めた。
拳の風圧をかわし、砕けた地面の破片を踏み、ベヒモス級の腕の内側へ滑