あらすじ
「俺の感覚が一番正確」──そう言って先輩バリスタの城島は、俺のダイヤルインも、警告した蒸気バルブの劣化も、すべて握り潰した。
二十八歳の高瀬樹は、地方都市の喫茶店で「抽出担当」と呼ばれる無役の店員だった。誰にも頼まれず、誰にも読まれず、五年と二か月、A5の黒革手帳にTDS値と粒度と湯温を書き続けるだけの男。
ある朝、ボイラーが破裂した瞬間、視界が白い蒸気に染まり──気づけば石造りの天井の下、白髭の老人が腐った生豆を手のひらに乗せて差し出していた。
「異邦の、抽出師よ」
イェリオン大陸。三百年前から〈過抽出〉が「正しい抽出」とすり替えられ、瘴が広がり続ける世界。ここで俺の地味な五年分の手帳と、地下三階で十一年写本を続けた女・リラエの帳面が、唯一、古代の正典と寸分違わずに重なっていた。
王宮で再会したのは、もう一人の〈彼〉。深紅のローブをまとった紅の宮廷魔導師ジョージア。顔も、唇の歪みも、自己顕示欲も、城島と寸分違わない男。彼は俺の五年分の手帳を松明に放った。
灰の前で、ようやくわかった。俺は認められたかったんじゃない。ちゃんと淹れたかっただけだ──。
大陸そのものを巨大なドリッパーに見立てた最終工程。蒸らしの三十秒を、世界規模で。
そして元の世界に戻った俺を待っていたのは、退院手続きと、辞職届と、そして「いつかの一杯」を覚えていてくれた、たった一人の客だった。
地味で、丁寧で、誰の役にも立たない記録の物語。深夜のカウンターで、誰にも見られず、ただ書き続けた人へ。
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