あらすじ
三時の厨房は、誰にも見られていない場所だ――。
窯番パティシエとして十年、先輩の倉橋に手柄を奪われ続けてきた鶴見蓮、二十七歳。婚約者には「あなたは自分のために怒れない人」と指輪を返され、その夜、四百人分の婚礼ケーキを仕込んでいた厨房で、倉橋が積み上げた什器の山に潰される。
目を覚ませば、そこは砕けかけた魔晶結晶を抱えるアステリア王国の麦畑だった。世界の言語を翻訳する巨大な結晶は、ファットブルーム――テンパリングをし損ねたチョコレートの白い濁りと、まったく同じ紋様で崩れかけていた。
飢饉に苦しむ異世界で、蓮の十年は意外な意味を持ち始める。亜麻色の髪の少女リリアを弟子に取り、若き美食家エルディオス侯爵の信頼を得て、王城に出仕した蓮を待っていたのは、倉橋と瓜二つの顔をした主任菓子司クルガだった。彼は結晶の不調こそを自分の地位の根拠とし、結晶が直ることを最も恐れていた。
仕込みノートに刻んだ十年分の記録、左手で握り直した温度計、そして三十二度――地味な技術が、二つの世界の腐った男たちを静かに吊り上げていく。八時間の再結晶化の儀式の果てに、蓮は元の世界に帰還するための「半分の魂を置いていく」という代償を選ぶ。
弟子の左手に温度計を預け、薬指の付け根に小さな火傷の痕を残して、蓮は日本に帰る。倉橋への記録による反撃、自分の小さな店「Patisserie Lila」の開業、傷を抱えた客たちとの出会い、新しい弟子の到来。そして、二年目の春に届く、世界を超えた一通の手紙――。
中編小説、全二十二章、約五万三千字。一人称の密接な視点で綴る、円環構造の異世界帰還譚。