あらすじ
『夫が愛人のもとへ消えた朝、私は泣かずに鍵屋を呼んだ』
朝は、いつも通りの匂いがした
味噌汁の湯気と、少し湿った空気
ただひとつ違ったのは
玄関に、もう一つの足音があったこと
ゴロゴロと引かれるスーツケース
軽くなる部屋
重くなる沈黙
「俺、出ていくから」
その言葉は
思っていたよりも軽くて
長く続いた時間の重さと、釣り合わなかった
私は頷いた
それだけでよかった
泣く理由は、もう残っていなかったから
ドアが閉まる
乾いた音
その音が、やけに澄んでいた
——ああ、終わったのだと
そう思った瞬間
胸の奥で、何かが静かにほどけた
私は電話を取る
震えない指で番号を押す
「鍵の交換を、お願いします」
それは、拒絶ではなく
ようやく自分に戻るための合図だった
金属の触れ合う音
ネジの回る音
新しい鍵の、確かな重さ
カチリ
その一音が
これまでの年月を、切り離す
夕方
見慣れた声が、扉の向こうで荒れる
「開けろ!」
知らない人のようだった
いや
知らない人だったのだろう
ずっと前から
私はドアに手を当てる
冷たい感触
その向こうに、かつての生活がある
でも、もう戻らない
「ここは、あなたの家じゃありません」
言葉は短く
けれど、嘘はなかった
カチリ
もう一度、鍵を回す
それは、閉じ込めるためではなく
自分を解放する音だった
泣かなかったのは
強かったからじゃない
ただ
もう、涙を使う相手ではなかっただけ
朝は、いつも通りに来る
でも、同じ朝は二度と来ない
私は、鍵を持っている
これから開けるのは
誰のためでもない
私のための扉だけだ