あらすじ
権勢を誇る将軍府の奥深く、沈無咎(しん・むきゅう)は贅を尽くした名香の煙に巻かれながら、戻らぬ主を待っていた。その主とは、戦場を揺るがす剛勇の将、裴驍(はい・ぎょう)。
ある夜、沈無咎は閉じられた屋敷の門を叩き、江辺へと向かう。そこには、華やかな都の香りとは無縁の、風に吹き晒された野洲が広がっていた。銀色の月光が降り注ぐ川岸で、焚き火を囲み独り座る裴驍。
「お前が好むような名香はないぞ」と突き放すように告げる裴驍に対し、沈無咎は静かに微笑む。彼が求めていたのは、宣徳炉から立ち上る高貴な香りではなく、荒野に力強く、そして儚く匂い立つ杜若(かきつばた)の「苦さ」だった。
重なりそうで重ならない、二人の孤独な魂が交差する一夜を描いた、美しくも切ない短編物語。