あらすじ
現代の寛容のない世相は止まる事は無く、その中で懸命に生きる者にとって、もはや自由に生きる事すら困難になってきている。
それは二極分化した世界の中で、過度の自由と権利を主張する事が主な原因であろう。
何故ならアトム化したホイ・ポルロイは、ある時は無秩序な自由を無制限に要求し、その自由を支える基底が社会的な義務を果たす事であると言う事を知らないし、知る努力も行わないからだ。
そのような状況下では、必ず時の為政者による権威の圧政が始まり、自由と権威の相克の始まりとなる。
そうして自己不透明性の大衆(アトム化したホイ・ポルロイ)となった者は、改めて法と制度への服従を誓わされるのである。
そうする事が「正義」であると導かれてしまうのである。
自己に閉塞した者は、私的思慮の埋没し、社会的参画を忘却し、もはや自閉からの覚醒を望みうる事が困難になる。
さらに悪いことに、個々人が自閉化している場合(その自覚の有無関わらず)、逸脱してしまいがちな世界では、各々が自律的な生を送っていると錯覚してしまう。
そのような世界で、求めるものは富 名誉 権勢等であり、これらの獲得の為に理性を道具として用いながらも自身は合理的な生を送っていると思い込む。
そこにはもう共同体主義的な、お互いがお互いに責務と互恵を担保すると云う非アトミズム的思考は全く存在し得ない。
存在するのは、義憤無き感情論と徘徊するシャーマン 所かまわず出没するルサンチマンの咆哮である。
この自己への限りない執着と、閉塞感と言う私的思慮に埋没し、自己不透明な個々人が群れを成す中で、ある意図を持って生きても良いかな、と思う瞬間と実行する事が、如何に困難な事であるかを考えてみたい。
登山は、時に異次元と非日常への入り口になる。
そこでは自身の本能と理性が融合し調和する時と、乖離する時がある。
その時の事象に対する判断を選択する基準とは「運」によるのか、それとも「必然」なのか。