あらすじ
味噌汁の湯気が、今朝だけ少し近すぎた。
それだけのことだった。吐くほどでも、倒れるほどでもない。ただ、椀を持つ手が、いつもより一拍だけ慎重になる。カレンダーへ目をやる。日付を確認したかったわけではない。でも視線はそこで止まり、指先は湯のみのふちで止まった。
三日。
その数字だけが、紙から少し浮いて見えた。
夫は今朝もいつも通りだった。「今日遅くなる」「洗剤買える?」「ゴミ出しといてくれた?」生活というものが毎朝まちがえず置いていく、必要な言葉だけで出来た朝。冷たくもなく、優しすぎもしない。壊れていない。壊れていないからこそ、どこへ置けばいいのか分からないものがある。
夫が出ていったあと、スマホに通知が入った。
『起きてる?』
たった五文字。名前も絵文字もない。それだけの問いが、今朝の台所には少し重すぎた。
昼前に買い物へ出た。洗剤、牛乳、卵、ラップ。いつもの棚をいつもの順で回る。けれど、ある棚の前で足が止まる。通り過ぎた。歯磨き粉を取り、スポンジを取り、柔軟剤を取った。暮らしを続けるためのものばかりがかごに増えていく。
それから、もう一度戻った。
小さな箱を一つだけ、かごに入れた。レジの店員は顔も上げずにスキャンしていく。ピッ、ピッ、という音が一定の間隔で続く。自分の「袋、お願いします」という声が、思ったより普通だった。
帰宅後、冷蔵庫に牛乳をしまい、洗剤を洗面所へ移す。それぞれ、いつもの場所がある。最後まで残った小さな箱だけが、キッチンカウンターの端に置かれたままになった。
何も確かめていない。名前もまだつけていない。
それでも、今日の私はもう、昨日までの並べ方で皿を戻せない気がした。
「予感」とはこういうことを言うのかもしれない。出来事が起きる前に、生活の手触りだけが先に変わってしまう、あの静かな朝のことを。