あらすじ
東京の広告会社で言葉を書いていた篠原蓮。自分の書いたコピーが、誰かの背中を崖で押したのではないか――その棘を抜けないまま会社を辞め、行き先も決めずに乗った在来線の終点が、汐見という名の小さな海辺の町だった。
駅から海へ続く一本道の先に、白い壁の銭湯があった。「海月湯」。番台に座っていたのは、八十二歳の女将・奥村時子。彼女は蓮の過去を訊かなかった。ただ、二階の空き部屋を貸し、薪の割り方を一度だけ見せた。
記憶の境目が溶けはじめた元漁師。父にスケッチブックを捨てられた高校生。母を救おうとして自分が救われていなかった建築士。フィリピンから来た介護士。それぞれの夜が、小さな銭湯にひとつずつ集まってくる。
時子は、ほとんど語らない。けれど薪をくべる手のなかに、帳面の小さな印のなかに、見えないものがある。
深いところほど、静かだ。
深いところほど、光がある。
これはひと夏の、六つの夜の物語。