あらすじ

カラン 窓の外は、完全に日が落ち切る前の群青色 珈琲の煙が鼻孔をくすぐる 心地よくて瞼を閉じてしまう 「いらっしゃいませ」 「ああ」 「お決まりになりましたら……」 「このホットを一つ」 僕は、この間が好きだ。 PCを開きたい気持ちを静める。溜まりに溜まった仕事の未処理、上司からの小言、家族への連絡。 コーヒーが来るまでの間は忘れるのだ。 「おまたせしました」 待ってなどいない。いつも早すぎるくらい早いが。 それでもいい。時計は18時を回ろうかとしている。 暖かくて広くて、それでいてちょっと儚い香りが、熱い湯気が、僕の眼鏡を白く曇らせる。 隣を通り過ぎるオジサンからは新聞を畳む音が聞こえる。 この少しインクの香りがする瞬間もまた好きだ。 音楽。 ラジオか?有線か? 僕はあんまり音楽に詳しくないけど、この歌手があんまり上手じゃないなってことくらいは分かる。 鞄の底で丸まったままの企画書をかき分け、ようやくPCを引っ張り出す。 「さて。メールを確認しないと」 :通知が2425件あります: はいはい。最新だけ見ますよっと。 件名:母です早く帰って来て 午前0:20に着信したメールか。 カップに入った熱い液体で舌先をやけどしてしまった。 ――なんだよ 本文を見ずにPCを閉じてしまった。 どうせ明日の朝には実家に向かうのだ。 今更慌ててタクシーに飛び乗ったところで、僕が急げばどうにかなるような時期はとうに過ぎている。 今更その予定を早める事など出来ない。 いまは、この上手くない音楽と、心地よい革のソファーに身を委ねて何も考えないようにする。 パニックになっているであろう実家と、コーヒーを啜る自分。この残酷な落差のなかにいると、不思議と落ち着くのだ。 僕は、この差も好きだ。 だから僕は、珈琲が好きなのだ  * * * 翌日。 暖かい缶コーヒー。動かない父。 母は泣いているが、どこまで本心なのだろう。 いつも周りを気にする母親と、真面目な父親。この家族のリズムが壊れ始めたのは去年からか。そんなことはいいか。どうせまた後で考えればいい。 ポクポクとちょっと癖になる音が聞こえる。 坊主も多分気持ちよく叩いていることだろう。 1日に何件もまわるのだろうか?どれくらいお布施が入るんだろうかと考えていると、甥と姪が横で詰まらなそうにしている。 つい、変顔を作ったりして。すまないな父さん。 思い返せばウチの父は多くを語らない人だった。だからか、僕は良くしゃべる人間になった。 女の腐ったように喋るなという、当時は良く分からない言葉で怒られて変顔していたと思う。 今僕はちゃんと悲しそうな顔が出来ているのだろうか。ぬるくて苦いコーヒーも中々乙なものだ  * * * ドラマや子供たちに伝える話はいつも嘘ばかり。 現実はもっと、曖昧なんだと知っていく事が人生なんじゃないかなと諦観している。 父と釣りに行ったり、デパートで買い物をしたり、理不尽に怒られたりしたことを思い出す。 理屈はラベル付け。 折り合いをつける事なのだ。 さて。今日はハンドドリップなのだ。すこしひょうきんな妻に珈琲を入れてやる。 ちょっと美味しいクッキーと一緒に頂く。 こんな瞬間に、涙が出てくるのだから人間は不思議なものだ。

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カクヨム2026/04/12
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