あらすじ

音が色として見える少年・凪にとって、世界は常に光と響きが重なる場所だった。人の声は淡い光を帯び、風は薄緑、雨は群青。音と色は彼の感覚そのものだった。  しかし放課後の川沿いで出会った少女・紬の音だけは、ただ“黒”として沈んでいた。篠笛を吹こうとしても音にならず、かすれた息だけが漏れる。その黒は色の不在ではなく、混ざりすぎて形を失ったような、凪の知らない黒だった。  紬は自分の音を否定していた。かつて祭りの舞台で笛を吹いた際、音が乱れ、舞台装置が倒れ、幼い従妹が怪我をした。紬はその事故を「自分のせい」と信じ込み、音を出すことが恐怖になったのだ。  笛を構えるだけで手が震え、息が乱れ、音は黒く沈む。凪は彼女の黒い音に惹かれ、理由も分からないまま川辺へ通うようになる。紬の言葉の端々に滲む後悔。凪は気づく。紬の音が黒いのは、恐れや罪悪感、願いが重なりすぎて色として表現できないからだと。  ある夜、紬は凪を山へ誘う。「本当の音を出せる場所がある」と。闇の中にひっそりと咲く“黒い桜”。光を吸い込み、色を拒むその花の下では、人は迷いや後悔を抱えたままでも、自分の音を奏でられると伝えられていた。  紬は震える手で笛を構え、逃げ続けてきた過去と向き合う。そして初めて“恐れを抱えたままの音”を吹いた。  その瞬間、凪の世界が揺らぐ。黒だった音は無数の色を内包し、境界を失い、やがて透明へと変わっていく。色として捉えられないその音は、凪に初めて“音そのもの”として届いた。  透明な音は、色よりも深く、まっすぐに胸へ落ちていく。代償として、凪は音の色を見る力を失う。世界は静かに、ただ音だけを残した。  それでも凪は気づく。色がなくても、音は確かに心に届くのだと。黒い桜の下で紬が奏でた音は、過去も恐れも抱えたまま、それでも前へ進む強さを帯びて、静かに世界へ響いていく。凪はその音を、色ではなく心で聴いた。

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カクヨム
カクヨム2026/04/10
  • 現在の作品黒い桜