あらすじ
明治が終わり、大正という時代に明けた頃。
帝国大学を出た学士でありながら、職にも家庭にも落ち着けず、本郷坂下の姉夫婦の家へ出たり戻ったりを繰り返す男がいた。
久世省吾。足に古い傷を抱え、杖をつきながら、いつも不機嫌な高等遊民である。
頭は切れる。
人の嘘も、虚栄も、善意の顔をした支配も、ひと目で見抜く。
だが、その鋭さは他人を救うより先に傷つける。
とりわけ、自分へ差し出されたいたわりや同情には、耐えられない。
だから彼は、誰かと近づきかけるたび、自らその距離を壊してしまう。
軽井沢の別荘で、若くして夫を喪った未亡人と出会い。
地方の女学校で、制度の中に踏みとどまりながら少女を守ろうとする教師に会い。
芝居小屋の裏では、喝采の中心に立ちながら搾り取られてゆく女優と向き合う。
新聞社では、新しい時代の乾いた現実を生きる女と交わりながら、言葉が暮らしに触れる手応えを知ってゆく。
そのたびに省吾は、場の建前を剥ぎ、誰も口にしなかった本音を暴き、何かを少しだけ動かす。
けれど彼自身は、どこにも留まれない。
帰るべき家があるからこそ、そこへ収まりきれぬ自分が、いっそうあからさまになるからだ。
姉の店は、時代の流れの中で静かに揺らぎ始める。
女学生たちの手は新しい雑誌へ伸び、紙とインクの匂いをまとった新時代が、坂下の小さな書肆にも忍び込んでくる。
そして、省吾は初めて、自分が人の役に立ててしまう男であることを知らされる。
書ける。見抜ける。働ける。
その事実は、救いであると同時に、彼にとっては逃げ場を失うことでもあった。
家族に腹を立てられ、女たちに嫌われ、時に感謝されながらも、なお本音でしか人と向き合えない男。
明治から大正へ移る雨の季節、彼はまた家を出る。
だが今度は、何も残さず去るのではない。
店の帳面を整え、姪の机に本を置き、短い書き付けだけを残して。
帰る場所を持ちながら、なお落ち着けなかった一人の学士の物語。