あらすじ
22世紀末。自由の重圧に耐えられなくなった人類は、地下三千メートルの巨大サーバー『ゆりかご』へと逃避する。栄養液に浸され、光ファイバーで吊るされた肉体たち。彼らの意識はデジタルの海で永遠の安らぎを得ている。
記録者カイは、その海を監視する唯一の番人だ。かつて彼は戦場を取材する記者だったが、どれだけ真実を伝えても世界は変わらず、言葉の無力さに絶望していた。
彼が選んだのは「シニフィアン・シェル」という装置。言語学者ソシュールの理論を応用し、言葉の音(シニフィアン)と意味(シニフィエ)の結びつきを物理的に切断する装置だった。装着後、カイの記憶は徐々に意味を失い、ただの音へと退化していく。
地上では、人類の変容が進んでいた。「飛行機人間」は骨格の翼を生やし、決して飛べないまま滑走路を疾走し続ける。「車輪人間」は巨大な歯車に組み込まれ、永遠に回転する。泥を食べる「哲学者」は、カイに告げる。「重力こそが唯一の真実だ」と。
カイは石板に「タ・ス・ケ・テ」と刻むが、その意味はもう理解できない。彼は自分の日記を食べ始める。言葉が物質へと還っていく。やがて彼の身体は土と混ざり合い、完全に土へと同化する。
数百万年後、人類は「ミミズ人間」へと進化。言葉も記憶も失い、ただ土を食べ、排泄するだけの存在となる。
さらに数億年後、異星の探査艦が地球に降り立つ。カイが刻んだ「タ・ス・ケ・テ」は「偶然の亀裂」と判定され、人類の全遺産は「肥料」として回収される。
地球には、再び三億年前の静寂が訪れる。泥の最も深い場所で、一匹のミミズが土を食べている。
ただ、在るのみ。