あらすじ
第一章 空白の心
三沢健は、居酒屋の騒がしさの中で一人浮いていた。
金曜日の夜。
会社の同僚に半ば強引に連れてこられた合コンの席だった。
テーブルの上には枝豆や唐揚げ、空いたジョッキが並び、アルコールと煙草の匂いが混ざった空気が店内に漂っている。
周囲では笑い声が弾けていた。
「それでさー、その時部長がさ!」
「うそ!マジで?」
隣の席では誰かが肩を叩き合いながら盛り上がっている。
向かいの女性たちも、グラスを片手に楽しそうに笑っていた。
しかし健だけは、その輪の中に入れずにいた。
グラスの氷が静かに溶けていく。
会話のテンポについていけない。
何を話せばいいのか分からない。
こういう場は昔から苦手だった。
「三沢くん、静かだねー。」
突然、向かいの女性が声をかけてきた。
明るい茶色の髪の女性だった。
健と同じくらいの年齢に見える。
「お酒弱いの?」
「いや……そんなことないです。」
健は曖昧に笑った。
女性は興味深そうに身を乗り出す。
「じゃあなんでそんな静かなの?」
健は少し考えた。
正直に言うべきか、それとも適当に流すべきか。
結局、無難な答えを選んだ。
「こういうの、あんまり慣れてなくて。」
女性はくすっと笑った。
「かわいいですね。」
その言葉に、健はどう返せばいいのか分からなかった。
ただ小さく笑うしかない。
会話はそれきりだった。
女性はすぐに別の話題で盛り上がっている友達の方へ向き直った。
その背中を見ながら、健はグラスを傾ける。
ビールの苦味が喉を通る。
店内の笑い声が、どこか遠くに聞こえる。
自分だけが、この空間から少しずれているような感覚だった。
しばらくして、健は席を立った。
「ちょっと外の空気吸ってきます。」
誰かが「ああ、どうぞ」と軽く答える。
それだけだった。
健は店の外に出た。
夜の空気が頬に触れる。
店内の熱気とは違う、少し冷たい空気だった。
健は深く息を吸う。
ネオンが濡れたアスファルトに映っている。
遠くで電車の音が聞こえた。
ふと、昔の記憶がよぎる。
それは三年前のことだった。
当時、健には恋人がいた。
遠距離恋愛だった。
会えるのは年に数回だけ。
それでも、健は本気で彼女を愛していた。
そして結婚を考えていた。
ある夜、健は手紙を書いていた。
今度会うとき、結婚の意思を伝えようと思っていたからだ。
言葉を何度も書き直しながら、未来を想像していた。
しかしその途中で、電話が鳴った。
彼女からだった。
つづく