あらすじ
東京都秋川市の住宅街に建つ「みなせ動物病院」。
亡き祖父から病院を引き継いだ獣医・水無瀬玲央(みなせ れお)は、二十八歳。腕は確かで動物には好かれるが、飼い主への物言いは辛口で、無口で愛想もよくない。
ベテラン看護師のまりや若い見習いのひかるに支えられながら、秋川警察署の警察犬担当かかりつけ医として、仕事だけの静かな日々を送っていた。
そこに現れたのが、警察犬訓練士の柴川健太郎、二十五歳。鑑識課から転じた期待の若手ハンドラーで、相棒は全身真っ黒のジャーマンシェパード・クロ。
初対面で「かっこいいですね」と言ってのける人懐っこさ、帰れと言っても懲りずに来院する図太さ、クロと同じまっすぐな目——署内では「しばけん」と呼ばれる彼は、まさに大型犬そのものだった。
クロを診るたびに何かしら理由をつけては病院に現れ、食べ物を持参し、草むしりを手伝い、縁側で並んで昼ごはんを食べる。その積極的なアプローチに、玲央は戸惑いながらも、少しずつ距離を縮めていた。
玲央が頑なに距離を置くのには、理由があった。
大学時代、初めて好きになった年上の男のために、愛犬のシベリアンハスキー・ユキの異変を見て見ぬふりをした。食欲不振、元気消失——サインは読めていた。でも先輩の誘いを優先し続けた。
手術が間に合わず、ユキは死んだ。
獣医学科の学生でありながら、大切な命を見逃した。その罪悪感は六年経った今も消えず、玲央は誰かを好きになることを自分に禁じていた。
転機は、捜査中にクロが負傷した深夜だった。
駆けつけた玲央は、震える手ひとつ見せず懸命に処置を施しながら、健太郎に激怒する。
「犬は道具じゃない」——その言葉の奥にあるものを、健太郎は見逃さなかった。
急かさず、責めず、ただ隣にいることを選んだ健太郎。
秋川渓谷の川沿いの岩場で、玲央はユキのことを初めて言葉にした。
罪悪感と悲しみ、ずっと一人で抱えてきた傷を。健太郎はそれを否定もせず、慰めもせず、ただそこで静かに受け取った。
気がついたら、待っていた。帰れと言わなくなっていた。
縁側で並んで座るようになっていた。
クロが二人の間にどんと座る、穏やかな時間が増えていた。
「付き合ってください」
まっすぐな目で告げた健太郎に、玲央はゆっくりと答えを出す。
怖い。好きになると、また失うかもしれない。
それでも——この男は先輩とは違う。急かさなかった。引かなかった。クロを、本当に大事にしていた。
怖くても、隣にいる。
それだけのことが、玲央にとってはずいぶん大きな一歩だった。
玄関の棚に、赤いリードと黒いリードが並んでいる。過去と現在が、静かに寄り添っている。
大型ワンコ警察官には、どうやら敵わないらしい。