あらすじ
海が消えた。それは一度きりの災害ではなく、幾世代をかけて日本の形を変えた。
かつて海岸線だった場所は、潮の匂いのない灰色の平原になり、やがて砂が国土を覆った。雨は激減し、乾きと寒暖差が人を削る。粉塵嵐は「異常」ではなく「季節」として定着し、空は白く、喉は常にざらつく。人の数も減った。飢えと渇きと病、粉塵が与える肺への異常、街道の奪い合い。生き残った拠点は点になり、移動の途中で消える集落のほうが多い。
人間はまだいる。だが、残りわずかだ。地上で暮らすには、装備と燃料と濾過が要る。それを面で維持できる国家はもうなく、人々は生き残れる場所へ沈んだ。地下鉄のホーム、地下街の奥、トンネルや岩盤の空洞。そこに濾過室と二重扉を備えた小さな拠点が点在し、地下が「街」になった。地上は移動と回収の場であり、地下は睡眠と配給の場である。
人々を動かしているのは水ではなく塩だ。人間は汗と尿で塩を失い続ける。食料の保存にも、家畜にも、傷の手当てにも、皮のなめしにも、薬品にも、塩が要る。海がない以上、塩は「そこらにある資源」ではなくなり、手に入れた塩は「生存」そのものになる。だから塩は通貨になった。粒の重さが借りになり、袋の数が信用になり、塩の流れが拠点の寿命を決める。
――この世界で塩を失うことは、すなわち生き方を失うことだった。