あらすじ
『泥を喰む鳳凰』
氷の水に 指を沈めても
熱は 引かなかった
四十度の身体で
五十人分の“正しさ”を刻む朝
「嫁は黙って、手を動かしなさい」
その声は 刃物より薄く
けれど確かに 骨を削った
出汁の香りが 立ちのぼる
昆布と鰹の 澄んだ呼吸
それだけが 私に残された
名もなき誇りだった
――無知な嫁
そう呼ばれて 十五年
笑われるたび
一つずつ 言葉を捨てた
否定されるたび
一つずつ 心を畳んだ
けれど 火は消えない
鍋の底で 静かに
音もなく 煮えていた
畳にこぼれた 出汁の海
頬を打つ 掌の音
笑い声の奥で
何かが ひび割れた
泥を啜るような 日々の中で
それでも私は
味を忘れなかった
――あなたの味は、もう要らない
その一言が
十五年の沈黙を裂いた
雨が降る
屋敷を叩き壊すように
「出ていけ」と叫ぶ声よりも
雷の方が 優しかった
泥に落ちた封筒を拾う
指先が 震える
それでも 離さない
私は知っている
この手が
何を生み出せるのか
炎は ようやく
私のものになる
世界は 静まり
ひとすじの香りが 広がる
「これは料理ではない」
誰かが そう言った
いいえ
これは 私だ
泥を喰み
踏まれ
名前を奪われても
なお 燃え尽きなかったもの
鳳凰は
灰ではなく
泥の中から 立ち上がる
静かな台所
誰もいない夕暮れ
湯気の向こうで
私は 初めて
私のために 火を入れる
――おいしい
その一言が
すべてを赦した