あらすじ
『消えた200万円の契約書 ―80歳の母が流した夜の涙―』
夜の電話は
いつもより少しだけ
遠くから聞こえた
名前を呼ぶ声が
こんなにも弱くなることを
私は知らなかった
テーブルの上に広がる紙は
ただの紙のはずなのに
触れると冷たくて
心まで凍りついた
二百万円という数字は
ただの数字のはずなのに
暮らしの重さを
一瞬で奪っていった
昼間の言葉が
まだ部屋の中に残っている
「大丈夫です」
「今なら間に合います」
「皆さんやっています」
優しさの形をした声が
こんなにも鋭いものだと
母はその日 知った
押してしまった印は
朱色なのに
どうしてこんなにも
黒く見えるのだろう
夜になって
静けさが戻るころ
本当の音が聞こえてくる
不安の音
後悔の音
そして
助けを呼ぶ小さな声
「ごめんね」と繰り返す母に
言葉が見つからなかった
守られていたはずの人を
守る側になっていることに
そのとき初めて気づく
紙は破れない
時間も戻らない
それでも
人は
まだ戻れる
手を伸ばせば
誰かがつかんでくれる場所が
きっとある
あの日の涙は
消えたわけではない
ただ
次に同じ涙を流さないための
灯りになっただけだ
静かな部屋で
母はゆっくりと顔を上げる
そして私は
少しだけ強くなった背中を
そっと見つめていた