あらすじ

元亀三年(一五七二年)十二月、三方ヶ原。  武田信玄は徳川家康を完膚なきまでに打ち破り、天下にその武威を轟かせた。しかし史実において、信玄はこの勝利からわずか四ヶ月後、三河の陣中で病に倒れ、五十三年の生涯を閉じる。信玄の死とともに反信長包囲網は瓦解し、織田信長は天下布武を一気に推し進めた。  もし、あと半年——。  信玄が半年長く生きていたら、天下の形はどう変わったのか。  本作は、その「もしも」を描く歴史IF小説である。  信玄の命を繋いだのは、堺で南蛮医術を学んだ一人の無名の医者であった。東海道沿いの三河に生まれ、新しい医術を故郷に持ち帰る途上で武田軍に捕らわれたこの男が、偶然にも信玄の病を嗅ぎつけたことから、歴史の歯車は史実とは異なる回転を始める。  三河を蹂躙し、尾張を貫き、美濃で織田信長と激突する信玄。その傍らで、朽ちゆく肉体に鞭を打ち続ける老将の命を一日でも延ばそうと苦闘する医者。口封じのために医者を斬ろうとする忠臣と、それを止める信玄の器。そして、父が命と引き換えに切り拓いた道の先に残された、若き後継者の重すぎる未来。  信玄に与えられた「あと半年」は、天下を獲るにはあまりに短く、しかし歴史を変えるには十分な時間であった。  命を削って天下に手を伸ばした男の、最後の五ヶ月を描く。 --- ## 登場人物 --- ### 武田信玄(たけだ しんげん) 甲斐の戦国大名。武田家第十九代当主。五十三歳。 孫子を座右の銘とし、謀略と外交を駆使して甲斐・信濃・駿河・上野西部を支配下に収めた名将。三方ヶ原で徳川家康を破り、その武威は天下を震撼させた。しかし、その体は胃の腑の腫物(胃癌と推定される)に蝕まれている。冷徹な戦略家であると同時に、人を見抜き、人を活かすことに長けた器の持ち主。本作の主人公。 --- ### 柏原宗怡(かしわばら そうい) 三河出身の医者。四十歳前後。本作の創作人物。 東海道沿いの医家に生まれ、新しい医術を求めて堺に遊学。ポルトガル人外科医やイエズス会修道士から南蛮医術——阿片を用いた鎮痛法、蒸留薬の調合、外科的処置——を学んだ。故郷に知識を持ち帰る途上で、武田軍に捕らえられたことから運命が一変する。故郷を蹂躙した武田への複雑な感情と、医者としての信念の間で揺れる男。 --- ### 織田信長(おだ のぶなが) 尾張・美濃を本拠とする戦国大名。「天下布武」を掲げ、畿内の支配を進める。 鉄砲を駆使した合理的な戦術と、窮地における烈しい指導力を併せ持つ。面子よりも実利を取る柔軟さと、その裏にある狡猾さが同居する。信玄が「型がない」と評した、戦国最大の変数。本作では四方を敵に囲まれた未曾有の危機に立たされる。 --- ### 武田勝頼(たけだ かつより) 信玄の四男。二十七歳。武田家の後継者。 父譲りの武勇を持つ若き将。戦場での勇猛さには目を見張るものがあるが、信玄のような深慮遠謀にはまだ及ばない。父の背中を追い、己の力を証明したいという欲求を抱えている。信玄亡き後の武田を背負う運命にある。 --- ### 山県昌景(やまがた まさかげ) 武田四天王の一人。赤備えの精鋭を率いる猛将。 戦場では鬼神のごとき武勇を発揮する一方、その本質は繊細な知性の持ち主である。武田のために何が必要かを冷徹に判断し、躊躇なく実行する男。信玄への忠誠は絶対であり、主君の秘密を守るためならば手段を選ばない。 --- ### 馬場信春(ばば のぶはる) 武田四天王の一人。七十歳に近い老将。 信玄に四十年仕えた武田の楯。堅実にして勇猛、信玄の言葉の裏にある意味を即座に理解する聡明さを持つ。歴戦の老将として、信玄に対しても遠慮なく進言できる数少ない人物。 --- ### 内藤昌秀(ないとう まさひで) 武田四天王の一人。寡黙な智将。 山県の突撃、馬場の剛勇とは対照的に、堅実な防御と的確な判断を身上とする。言葉は少ないが、信玄から厚い信頼を寄せられている。武田の知性を体現する存在。 --- ### 板坂法印(いたざか ほういん) 武田家に三代仕えた侍医。 漢方医学の大家であるが、信玄の病の正体を突き止められず、己の無力に苦しむ。伝統医学の矜持と、目の前の患者を救えない焦りの狭間にいる老医。 --- ### 足利義昭(あしかが よしあき) 室町幕府第十五代将軍。 軍事力を持たぬ身でありながら、書状外交と権謀術数に長ける。「将軍」の名が持つ大義名分の力を最大の武器として、反信長包囲網の精神的な紐帯を担う。 --- ### 朝倉義景(あさくら よしかげ) 越前の戦国大名。文化人としての素養は高いが、戦略的決断力に欠ける。 豊かな越前を治め、戦わずとも食える国の主。浅井長政との同盟関係にあり、反信長包囲網の一翼を担うが、その腰の重さは味方にとって最大の不安材料でもある。 --- ### 本願寺顕如(ほんがんじ けんにょ) 石山本願寺の法主。 加賀・摂津・伊勢長島に門徒の拠点を持ち、反信長勢力の中で最も組織的な動員力を誇る。宗教指導者でありながら冷徹な戦略眼を持つ、包囲網の実力者。 --- ### 浅井長政(あざい ながまさ) 北近江の戦国大名。三十歳前後。 信長の妹・お市を妻としながら、信長と袂を分かった悲劇の将。浅井家の誇りと朝倉との義理に殉じた選択の先に待つものは、勝利か滅亡かのいずれかしかない。 --- ### 徳川家康(とくがわ いえやす) 三河の大名。三方ヶ原で信玄に壊滅的な敗北を喫する。 本作では直接の出番は少ないが、諸勢力が消耗し合う中で、じっと嵐が過ぎるのを待つ男として、その存在が物語の背後に影を落としている。

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カクヨム2026/03/24
  • 現在の作品信玄西上 ― もし甲斐の虎が倒れなかったら  /著 峡崎 遼