あらすじ
『5年寝たきりの義母を看取ったその日に、夫が離婚届を差し出してきました』
白い百合の匂いが
まだ指先に残っている夜だった
焼香の煙は
天井に溶けて
やっと静かになったはずの家で
あなたは言った
「もう、自由になりたい」
自由
その言葉が
湯のみの縁を伝う水滴みたいに
ぽたり、と畳に落ちた
私は
五年分の夜を思い出す
痩せた背中をさすった手
乾いた唇に含ませた水
何度も何度も洗ったシーツ
「ありがとう」と
かすれた声で言った義母の
最後のぬくもり
あなたは
その部屋にほとんど来なかった
「仕事だから」
「疲れてるんだ」
「母さんも、わかってる」
わかっていたのは
私だけだった
今日
骨壺が軽くなった分だけ
私の肩も軽くなるはずだった
なのに
差し出された紙は
思ったより薄く
思ったより冷たかった
「サインしてくれ」
あなたは言う
まるで回覧板のように
私は
その紙を見つめる
涙は出なかった
五年間
泣く暇なんてなかったから
「いいよ」
そう言ったとき
あなたは少し驚いた
自由になりたいのは
どちらだっただろう
夜の静けさが
窓の向こうで揺れている
私は
白い花の匂いを胸いっぱいに吸い込む
やっと終わった
介護も
結婚も
そして静かに思う
看取ったのは
義母だけじゃない
あなたとの未来も
今日、ちゃんと
火葬したのだと