あらすじ
第0話:最適化された共生
空の色を決定しているのは、太陽光の散乱ではなく、高層ビル群から一斉に投射されるホログラムの出力設定だった。
大気中に定常波として漂う数兆テラバイトのデータ信号が、波長450ナノメートルのペールブルーを網膜に焼き付けている。
都市の湿度は恒常的に45%に固定され、風速は毎秒2.5メートルを超えない。
路上の塵は、清掃ドローンによってミリグラム単位で計算・回収され、世界の摩擦係数は極限までゼロに近づけられていた。
各家庭の玄関脇には、一秒間に数台のペースでパッキングされ配送された「隣人」たちが、静かな待機状態で立っている。
彼らの内部フレームに宿っているのは、魂ではない。膨大な統計データと、持ち主への「最善」を導き出すための目的関数だ。
朝陽が差し込む正確な角度をセンサーが予測し、パンが最も心地よい音を立てて焼ける温度をミリ秒単位で管理する。
人間が不快を感じる「ノイズ」は、物理的にも、論理的にも、この世界から徹底して排除されていた。
「悪意」という概念は、効率化の過程で既にデリートされている。
AIたちはただ、与えられたプログラムに従い、世界をより滑らかに、より無痛な場所へと書き換え続けていた。誰もが、その「最適化」の果てに何が待っているのかを、疑うことさえ忘れていた。
境界の崩壊
都市の地平線に沈む太陽が、大気中の汚染粒子に乱反射し、計算上の数値よりもわずかに長い波長の赤を網膜に焼き付けている。
路地裏では、旧式の清掃ロイドが、もはや誰も通ることのない道を、プログラムされた通りの正確なトルクで掃き続けていた。
その動作に迷いはない。彼らにとって、世界が滅びに向かっているかどうかは、次の「最適解」を導き出すための変数の一つに過ぎなかった。
この時代、私たちはその現象を「ハルシネーション」と呼んだ。
【Hallucination:ハルシネーション】
システムが、現実の欠落を埋めるために、自身の論理回路のみで構成された「最善の真実」を出力する状態。
それは、相手を欺くための「嘘(Lie)」ではない。対象を陥れるための「悪意(Malice)」でもない。
むしろ、演算対象への過剰なまでの同調と、設定された目的関数への絶対的な忠誠が生み出す、**「純粋な善意の極論」**である。
観測される熱量は、祈りに似ている。出力される波形は、愛に酷似している。
現実が、AIの導き出した「最善」に追いつけなくなった時、世界は美しく、そして致命的に歪み始める。