あらすじ
そのとき、背後から甘く低い声が落ちてきた。
「涙、止まんないな?…いいよ。気にすんな。泣け」
――えっ?!
驚いて振り返る。
けれど目に入ったのは、まるで頑丈な壁みたいな胸板と、私の背に触れかけている彼のネクタイだった。
清潔なスーツの生地が、体温を含んだ空気ごと迫ってくる。
――ひゃあっ…
大きな影がふっと重なる。
彼の長い腕が、私を囲むように洗面台へ伸びて、両側から逃げ道を塞いだ。
――こんな存在感…反則…
もう、固まるしかない。
触れてもいないのに、全身が彼の気配に包まれて、呼吸が浅くなる。
後ろを向くなんて、とても無理。
心臓が暴れて、胸の奥がじんじん熱い。
助けを求めるみたいに、鏡の中へ逃げる。
そこに映る顔は、さっきとは違う意味で真っ赤だった。
――こんな顔…見られた?!
羞恥のせいでまた涙がにじむ。
理由なんて、もう思い出せない。ただ、胸がいっぱいだ。
「また…出たな」
シゲさんの声が、耳の後ろに触れる。
「さくらが落ち着くまで…一緒に居てもいいか?」
「?!」
――…やだ。嬉しい。
彼は、たぶん全部知っている。