あらすじ
アルドリクは薬草師だった。ケンドル三峰の麓、グリュンタール村で母から受け継いだ知識を頼りに、森で根を掘り、老人たちの咳を鎮める薬を煎じて暮らしていた。ある春の朝、北東の斜面でレンゲの根に触れた瞬間、世界が色を失った。
目覚めた場所は、二〇二四年三月の東京だった。
光の洪水、鉄の獣、読めない文字の看板。言葉は一語も通じない。コンビニで銅貨を差し出し、警察に取り押さえられ、入管施設に収容される。十二の言語で通訳が試みられ、すべて不通。身元不明外国人、使用言語不明。案件番号R6-TN-0312。
入管職員の田所誠一は、送還先のない人間を送還施設に収容する矛盾の中で書類を綴じ続ける。比較言語学者の鏡原沙良は、アクリル板越しの三十分間で未知の言語の解読に挑む。十二進法の数体系、六格の膠着構造、動詞に刻まれた社会的関係の痕跡――その言語は既知のいかなる語族にも属さなかった。
母が毎朝歌ってくれた子守歌がある。冬が来ても種は土の中で目覚めている、春になれば光は戻る、と。アルドリクはその歌を、誰にも届かない言葉で、鉄格子の向こうで歌い続けている。